武蔵小杉ブログ(武蔵小杉ライフ 公式ブログ)

川崎市中原区の再開発で変貌する街・武蔵小杉のタウン情報サイト『武蔵小杉ライフ』の公式ニュースブログ。街の最新情報やさまざまな話題をご紹介します。

2011年
09月04日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(14):「泉沢寺と門前市」

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川崎歴史ガイド・中原街道ルートの第14回は、「泉沢寺と門前市」
です。

泉沢寺は浄土宗の寺院であり、1491年(延徳3年)に武蔵国多摩郡
烏山(現在の世田谷区)に吉良氏の菩提寺として創建
されたのが
はじまりです。
その後1549年(天文18年)に火災により建物が焼失したため、
1550年に世田谷領主吉良頼康が中原街道沿いに再建し、現在
に至ります。

■現在の泉沢寺
現在の泉沢寺

当時、吉良氏は後北条氏のもとで隆盛をきわめており、その勢力は
世田谷だけでなく川崎中央部から横浜蒔田町にまで及んでいました。
その勢力範囲の中心部にあって耕地化が進み、「市(いち)」の
あった上小田中を核として、吉良氏は権勢の拡大を図ろうとしたの
であろう
といわれています。

泉沢寺に所蔵されている古文書によると、吉良氏は上小田中の市
から泉沢寺の堀際までを寺門前とし、その中は税や労役を免除する
「特区」としていた
ことがわかっています。
そのような優遇により寺門前への居住を促進し、門前市を繁栄させた
ということのようです。

これは、現在にも通じる行政施策ですね。

■「泉沢寺と門前市」のガイドパネル
「泉沢寺と門前市」のガイドパネル

このあたりの経緯が、中原街道沿いに設置されたガイドパネルでも
簡単に触れられています。
優遇施策によって各地から農民の移住が進み、門前市は大いに
賑わった
そうです。

上小田中よりも少し後になって、世田谷にも同様の市ができました。
現在では、泉沢寺の市は「夏の泉沢寺お施餓鬼」、世田谷の市は
「冬の世田谷ボロ市」
として名残りが残っています。

■がんばれぼくらの世田谷線 世田谷ボロ市
http://www.setagaya-line.com/trip/boroichi/

「世田谷ボロ市」といえば、現在でも非常にたくさんの人で賑わう
イベントで、かなり知名度があります。
同様に繁栄していた泉沢寺の門前市が、そのような一大イベントに
育たなかったのは少々残念ではありますが、現在でもお施餓鬼
にはいくつか露店が並び、地元の子どもたちの楽しみとなって
いる
ようです。

なお、泉沢寺には多くの文化財が所蔵されており、以下は
川崎市重要歴史記念物に指定されています。

■泉沢寺所蔵の川崎市重要歴史記念物
・泉沢寺再建に関する吉良頼康関係の判物
・北条氏政の禁制(虎の印判状)
・徳川家康の代官神谷重勝の寺領朱印状下附に関する書状
・徳川氏奉行人連署奉書
・徳川綱吉の霊廟に祀られていた四天立像(木造)
・南北朝時代製作の阿弥陀如来立像(銅像)


これまでに取り上げた西明寺などもそうですが、中原街道沿いの
寺社には、紐解いてみるとさまざまな歴史が残されていますね。

■中原街道と泉沢寺
中原街道と泉沢寺

■「泉沢寺と門前市」のガイドパネルマップ
「泉沢寺と門前市」のガイドパネルマップ

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と
石橋ベンチ

2011/7/9エントリ (13):「二ヶ領用水と神地橋」

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2011年
07月09日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(13):「二ヶ領用水と神地橋」

hatsushimo.gif

川崎歴史ガイド・中原街道ルートの第13回は、「二ヶ領用水と神地
橋」
です。

中原区周辺一帯の農業用水は多摩川(主に多摩区中野島と宿河
原の2箇所)から取り込まれ、それが合流する高津区久地には
「久地分量樋」が設置されていました。
この「久地分量樋」から川崎堀、根方掘、六ヶ村堀、久地・二子堀の
4つの用水路に農業用水が分配
され、地域の農地を潤していたそう
です。

ただ、それぞれの用水路の流域同士、水の分配については争いが
絶えなかった
ようで、灌漑面積に応じた正確な比率で水を分配する
技術が導入されることになりました。それが、有名な「円筒分水」
です。

■川崎市指定文化財紹介 二ヶ領用水久地円筒分水
http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/
top/stop/zukan/z0036.htm


この「円筒分水」は1941年(昭和16年)に建設されましたが、当時と
してはかなり高度な技術
が用いられているものでした。
川崎堀38.471:根方堀7.415:六ヶ村堀2.702:久地・二子堀1.675
という比率で水を正確に分配することが可能となっていたのです。

その高度な技術が今に残されていることから、円筒分水は国登録
有形文化財
として指定されていますが、それだけの技術を投入する
ということは、この一帯の流域が農地としては肥沃であったことを
示しています。

前述の川崎堀は二ヶ領用水の本流であり、ここからさらに細かい
支流が分岐していました。上小田中から分岐する井田堀、宮内
から分岐する木月堀、市ノ坪から分岐する上平間堀
などがそれ
ですが、これらの支流は井田、今井、北加瀬などの稲毛領の
農地に水を供給していました。
用水路の整備によりこれらの地域では良質な米が収穫され、
「稲毛米」と呼ばれて江戸に供給されていたそうです。

「稲毛米」と呼ばれていたのは現代でいうところの「ブランド」という
ことになろうかと思いますが、ブランド名が付くだけの米が取れると
なると、農業用水をめぐって争いにもなろうというものですね。

■神地橋とガイドパネル
神地橋とガイドパネル

さて、前置きが長くなりましたが、こちらが今回取り上げる「神地橋
(ごうじばし)」
と、そのたもとに設置されたガイドパネルです。
神地橋は、前回取り上げた「小杉十字路」のすぐ近く、二ヶ領用水
本流と中原街道が交差する場所
に架けられています。

この一帯には「神地」という地名がありまして、「神地橋」もそれに
由来するものですが、住所表示上は「上小田中」「宮内」となって
おりまして、「神地」という住所はなくなっています。
ただし、「中神地公園」「セブンイレブン川崎神地店」など、地域
では現在でも「神地」が一般的に地域名として使われています。

■中神地公園
中神地公園

「神地(ごうじ)」という地名については、前述のように肥沃な農地
であったことから「耕地(こうち)」が転じたという説もあれば、
近隣の春日神社の土地「神地(しんち)」が転じたという説もあり、
はっきりしたことはわからない
ようです。

神地橋は、かつては木造の橋であったものが1937年(昭和12年)
にはコンクリート造に架け替え
られまして、その姿も時代ととも
に変わってきました。

■神地橋から見る二ヶ領用水
神地橋から見る二ヶ領用水

「川崎歴史ガイド」の冊子によると、かつてはこの橋から二ヶ領用水
に飛び込んで泳いだという方も多かった
そうです。
現在では二ヶ領用水に入って遊ぶということも日常では見かけなく
なりましたけれども、」神地橋から水の流れを眺めていると、当時の
のどかな風景が目に浮かぶようです。

【関連リンク】
武蔵小杉ライフ:生活情報:公園 二ヶ領用水
武蔵小杉ライフ:生活情報:公園 中神地公園

(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と
石橋ベンチ

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2011年
05月03日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):「中原区役所の八百八橋」の看板設置と石橋ベンチ

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中原区役所に保存されている八百八橋のそばに、中原区内に残さ
れている八百八橋のマップ等を記載した看板が設置
されました。

■中原区役所の八百八橋
中原区役所の八百八橋

この八百八橋は先般、平成22年中原区協働推進事業としてリニュ
ーアル
されており、2011/4/7エントリでご紹介いたしました。
その際、コメントで看板が設置されることを情報提供いただいたの
ですが、先日予定通りに看板が設置されていました。

■設置された看板
設置された看板

設置された看板には、八百八橋の由来と、中原区内に残された
石橋の所在を示すマップ
が記載されています。
由来については以前よりこの場所にも石碑がありましたので若干
重複がありますが、マップについては区内の他の場所にもなく、
初めて見るものでした。

■八百八橋マップ
八百八橋マップ
※すでに本ブログでご紹介しているものはグレー表示

現地に掲示されているマップをトレースすると、このようになり
ます。

①中原区役所(本エントリ他)
②神明神社
③御蔵稲荷2010/7/19エントリ
④石橋醤油店2009/11/29エントリ
⑤JR武蔵小杉駅北口2009/12/21エントリ
⑥大楽院
⑦日枝神社
⑧神明大神
⑨八幡大神

全部で上記の9か所ありまして、そのうち①③④⑤については、これ
までの「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」の連載でご紹介
をして
います。
ご紹介済みのもの以外には、神明神社に石橋があるらしい、という
こと以外は存在を知りませんでしたが、結構残されているものですね。
今後、各地の石橋を探訪してみようと思います。

       ※       ※       ※

さて、同じくコメントで教えていただいたのですが、中原区役所の
八百八橋には、橋として歩行できるもの以外に、ベンチとして活用
されているもの
がありました。

■ベンチとして保存されている八百八橋
ベンチとして保存された八百八橋

ベンチとして活用される八百八橋

こちらは1枚目の写真とは反対側のスペースで、八百八橋の石が
2つ、ベンチとして置かれています。

1枚目の写真の石橋は「本来の橋としての姿」を再生したものですが、
こちらは八百八橋に実際に体で触れてみることをコンセプトとして
いるものでしょう。

■廃プラスチックで作られたベンチ
廃プラスチックで作られたベンチ

廃プラスチックで作られたベンチ

ところで余談ですが、この石橋ベンチの隣には、廃プラスチックを
リサイクルして作られたベンチ
も設置されています。
見た目も実際の手触りも木材としか思えないのですが、これが
元々はプラスチックのごみだったとは驚きです。

2011年3月からは、中原区においてはミックスペーパーと併せて
プラスチック包装容器の分別
も始まっています。
そこで分別回収されたプラスチック包装容器も、このような形で
再利用されたりするのでしょうね。

…さて、これで中原区役所の八百八橋リニューアル事業は完成
いうことになるようです。
中原区役所建物南側にありますので、区役所にご用事の際には
立ち寄ってみてください。

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル

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2011年
04月07日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル

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2010/5/23エントリでご紹介した、中原区役所の「八百八橋」周辺が
リニューアル
されました。

「八百八橋」とは、1772年から1781年にかけて上丸子で「ほしか屋」
という肥料店を営んでいた野村文左衛門が私財を投じて中原街道
沿いの各地に架けた石橋
のことです。
野村文左衛門は「人々のために1,000の橋を架ける」という志で
この事業を行い、その功績を讃えて後年になって「八百八橋」と呼
ばれるようになりました。

■「八百八橋」の由来を記した石碑
「八百八橋」の由来を記した石碑

「八百八橋」は現在でもいくつかが中原区内で保存されており、
石橋醤油店、御蔵稲荷、武蔵小杉駅北口、中原区役所の4箇所
をこれまでにご紹介してきました(関連リンク参照)。

今回はそのうち中原区役所に保存されている八百八橋周辺が、
「中原区協働推進事業」として市民と行政の協働により再整備され
たものです。

■中原区公式サイト 平成22年度中原区協働推進事業計画一覧
http://www.city.kawasaki.jp/65/65soumu/home/
soumu75/soumu75_09.htm


■リニューアル前の八百八橋
リニューアル前の八百八橋

まずこちらは前回エントリでご紹介したリニューアル前の八百八橋
です。こちらが今回どうなったかというと、

■リニューアル後の八百八橋
リニューアル後の八百八橋

このようになりました。
基本的な形は変わっていないのですが、目に付く変化としては橋の
下に白い石がしかれています。
これは水の流れを表現したもので
すね。

■八百八橋を渡る敷石
八百八橋を渡る敷石

また、八百八橋を渡れるように、敷石が整備されていました。
水を表現した石もそうですが、今回の周辺整備は、「人知れず区役
所の片隅に置かれている石」なってしまっていた八百八橋を、本来
の「橋」として再生するコンセプト
となっています。

協働事業の予算が限られていますのでできることには限度があり
ましたが、二ヶ領用水の水を引いて本当の水辺にできたら良いの
では?といった夢のビジョン
もあったようです。

今回のリニューアルにあたっては、2011年3月26日に完成イベント
予定されていたのですが、これは東日本大震災の影響により中止
なってしまいました。
イベントは残念でしたけれども、リニューアル事業自体は予定通り
完了
してスペースが開放されておりますので、中原区役所にお立ち
寄りの際にはちょっと覗いてみてください。

【関連リンク】(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」

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2011年
03月27日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(12):「小杉十字路」

hatsushimo.gif

川崎歴史ガイド・中原街道ルートの第12回は、「小杉十字路」です。

小杉十字路は現在も広く使われている名称であり、中原街道と府中
街道の交差点
のことを指します。中原街道のこの地点が府中街道
との交差することになったのは1897年(明治30年)以降のことになり
ますが、当時は小杉の中心地としてたいへん賑わっていたようです。

■小杉十字路
小杉十字路

「川崎歴史ガイド」の冊子によると、
「料理屋、旅館、劇場、人力車屋、床屋、医院、郵便局などが
集まり、このあたりの人々が『ロンドン・パリ』と呼んだ」

とされています。

鉄道が発達した現在とは違い、当時は街道が主要交通網でしたので、
2つの街道が交差する小杉十字路は、今で言えば東急線とJR線が
交差する武蔵小杉駅のような交通の要衝
だったのでしょう。

ロンドン、パリほどの大都会だったかどうかはさておき、1913年
(大正2年)に中原街道・府中街道を乗合馬車が走った際には、
この十字路が停留所となる
など、間違いなく小杉の中心地としての
役割を果たしていました。

■当初のガイドパネル設置場所
当初のガイドパネル設置場所

さて、小杉十字路のガイドパネルはというと、当初はこの角地の
マンション「クレストフォルム小杉御殿町」の敷地内に設置
されて
いたのですが、現在ではここにガイドパネルの姿はありません。

「クレストフォルム小杉御殿町」の建設に伴い、ガイドパネルはここ
から移設
されています。

■マンション建設前のガイドパネル

マンション建設前のガイドパネル

こちらがマンション建設前、まだ更地の状態の敷地に残されていた
ガイドパネル
です。
この時、すでに周囲は柵に囲われていましたので、外からパネルを
見ることはほとんどできない状態でした。

■移設後のガイドパネル
移設後のガイドパネル

移設後のガイドパネル

そしてこちらが現在のガイドパネルで、小杉十字路の交差点内に
移設
されています。
交差点の信号を渡る途中の植栽部分にありますので、ちょっと
ゆっくり見られるような場所ではないのですが、とりあえず保存
されていて良かったと思います。

       ※       ※       ※

さて、小杉十字路の歴史の話に戻りますと、1913年(大正2年)から
運行された乗合馬車は1918年(大正7年)には乗合自動車に変わ
り、さらに1926年(昭和元年)以降に現在の東急東横線、南武線
が開通
するなど、中原街道周辺の交通網は大きく変わってきま
した。

特に鉄道開通後は、交通の要衝は現在の武蔵小杉駅周辺に
徐々に移っていき、それに伴って中心市街地も駅周辺へと移転

していくことになりました。

現在の小杉十字路は、「ロンドン・パリ」のような賑わいはありま
せんけれども、交通量の多い交差点であり、たくさんの車が行き
交うという点では昔から変わっていません。

ただ、周辺では新しく交番が移転してきたり(2010/4/25エントリ
参照)、先ほどの「クレストフォルム小杉御殿町」以外にも「武蔵小
杉・キックオフマンション」
2010/6/12エントリ参照)が建設されてい
たり、中原街道の拡幅が進められているなど、十字路の風景は
今も少しずつ変わり続けています。

■「小杉十字路」周辺マップ
「小杉十字路」周辺マップ

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」

2010/4/25エントリ 小杉十字路の小杉交番完成
2010/6/12エントリ 小杉御殿町の「キックオフ」と「ノーサイド」

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2011年
02月11日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(11):「庚申塔と大師道」

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連載第10回で取り上げた供養塔から中原街道の道路を挟んで反対
側、少し府中街道寄りに、「庚申塔」が祀られています。

■中原街道の庚申塔
中原街道の庚申塔

■「庚申塔と大師道」のガイドパネル
「庚申塔と大師道」のガイドパネル

この庚申塔は、古くから「油屋」の屋号を持つ家の角にあったために
「油屋の庚申様」と呼ばれていた
そうですが、現在では油屋は残さ
れておらず、マンションになっています。

庚申塔というと、都電荒川線の「庚申塚」などのように各地に名前や
実物が残されていますが、これは道教の伝説に基づく儀式「庚申講」
(庚申待)
によって建てられたものです。

道教の伝説によると、人間の頭・腹・足には三尸の虫(彭侯子・彭常
子・命児子)がおり、いつもその人の悪事を監視
しているとされてい
ます。
三尸の虫は庚申の日の夜、人間が寝ている間に天に昇って天帝に
日頃の行いを報告
し、それによって人間の寿命や死後の行き先が
決められると信じられていました。

全く悪事に心当たりのない人間というものはなかなかおりませんの
で、さてどうするかというと、庚申の夜は神々を祀り、徹夜で宴会を
して三尸の虫が天に昇れないようにしていた
のだそうです。
その祭祀行為が「庚申講」(庚申待)であり、それを3年間続けると、
記念に庚申塔を建立
するのが習いだったようです。

■中原街道の庚申塔の像
中原街道の庚申塔の石像

中原街道の庚申塔の像

■見ざる、聞かざる、言わざる
見ざる、聞かざる、言わざる

中原街道の庚申塔は、「講」に加わっていた近隣の「講中」の方々に
より、1843年(天保14年)に建立
されたものです。前回の「附木屋」の
供養塔が建立されたのが5年後の1848年ですので、ほぼ同時期に
あたりますね。
建立から167年が経過し、現在では神様の顔はほとんど風化して
平らになっていますが、下部には三尸が人間の悪事を報告しない
ことを願って彫られた「見ざる、聞かざる、言わざる」の姿が確認
できます(『庚申』とは干支の『さる』のことですね)。

「川崎歴史ガイド」の冊子によれば、少なくとも冊子が発行された
1984年時点においては、講中の皆様が庚申の日に集まる慣習が
続いていた
そうです。

■「講中」の名前が書かれた看板(お名前は伏せてあります)
「講中」の皆様の名前が書かれた看板(お名前は伏せてあります)

■庚申塔に供えられたお花
庚申塔に供えられたお花

庚申塔の内部を見ると、講中の皆様のお名前が書かれていました。
これはまだ新しいもので、「平成8年1月」と設置された年月が記され
ています。
また、現在においても庚申塔にはいつもお花が供えられていますの
で、庚申塔が引き続き大切にされている
ことが伺われます。

■庚申塔の道標「東 江戸道」
庚申塔の道標「東 江戸道」

なお、庚申塔は道標の役割を兼ねていることが多く、「油屋の庚申
様」にも、「東 江戸道」「西 大山道」「南 大師道」という文字があり
ます。
写真ではわかりにくいと思いますが、上記は「東 江戸道」と彫られ
ているものです。

■庚申塔から分岐する大師道
庚申塔から分岐する大師道

かつてはこの庚申塔で大師に向かう府中街道が分かれていたもの
で、現在もその旧道は大師道と呼ばれています。
この大師道ををまっすぐ行くと、程なく現在の府中街道にぶつかる
ようになっています。

1843年に庚申塔が建立されてから、街道をゆく人たちがここを目印
に各方面へ行き交っていたのではないでしょうか。

■「庚申塔と大師道」マップ
「庚申塔と大師道」マップ

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」

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2010年
11月12日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(10):「小杉駅と供養塔」

hatsushimo.gif

川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第10回目は、「小杉駅と
供養塔」
です。

中原街道の武蔵小杉付近は、1673年(寛文13年)「小杉宿」として
宿駅(宿場)に指定
されていました。宿駅とは、江戸時代に各街道に
おいて交通・通信事務を取扱う為設定された町場をいい、大名の
本陣や旅人の宿泊施設、荷物運搬の人馬を中継ぎする設備が置
かれていました。

東海道の川崎宿は1623年(元和9年)に正式な宿駅となっており、
小杉宿は丁度それに50年遅れて指定されたことになります。ただ、
実際に小杉宿付近が最も栄えたのは宿駅の指定をされた時期より
も前、江戸時代初期
であったようです。

■カギ道付近の「つけぎや」
カギ道付近の「つけぎや」

さて、カギ道付近に「つけぎや」というお米屋さんがありますが、
そのすぐ脇(写真左手)に小杉が宿駅であったことを示す供養塔
残されています。

■供養塔とガイドパネル
供養塔とガイドパネル

ここには敷地の端に供養塔、すぐ隣にガイドパネルが建てられて
います。完全にお店の建物の敷地内で、供養塔だけが保存されて
いるような格好です。
この供養塔には「武州橘樹郡稲毛領小杉駅」とありまして、台座の
部分には「東江戸、西中原」という文字も判読できます。
この表記から、中原街道が江戸から平塚の中原を結んでいた街道
であることと、小杉が正式な宿駅であったこと
があらためて確認で
きます。

供養塔は、1848年(弘化5年)、前掲の「つけぎや」の先祖、鈴木
戸右衛門によって建立
されました。もう幕末に近い時期で、小杉が
宿駅になってから175年後
のことでした。

「つけぎや」は江戸時代から20代続く旧家で、籠屋として創業、
附木屋・よろず屋・材木屋などを経て現在はお米屋さんになって
います。
かつて営んでいた、附木屋(つけぎや)の屋号が現在まで残って
いる
わけですね。

「附木屋」とは、その名前の通り「付け木」を売る店です。付け木とは
薄い板の先に硫黄を乗ったもので、薪木に火をつけるためのマッチ
のような道具でした。
明治以降にマッチが使われるようになると、付け木は徐々に姿を消し
ていきましたので、それに伴って付け木を売る商店も別の業態に
移り変わっていった
ものと思います。

中原街道の「つけぎや」は、現在は一見してごく普通のお米屋さんに
見えますが、中原街道に名を残す歴史あるお店だったのですね。

■中原街道と供養塔
中原街道と供養塔

なお、中原街道のこの区間は歩道が設置されておらず、供養塔の
すぐそばを車が走っています。丁度バス停の目の前にもなっていま
すので、見学の際はご留意ください。

■「小杉駅と供養塔」のガイドパネル マップ
「小杉駅と供養塔」のガイドパネル マップ

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」

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2010年
08月19日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(9):「西明寺と小杉学舎」

hatsushimo.gif

川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第8回は、「西明寺と小杉
学舎」
です。西明寺については、2008/8/8エントリおよび、本連載の
2010/2/14エントリでも取り上げられていますが、今回は明治時代に
設置された「小杉学舎」に関する話です。

■西明寺参道のガイドパネル
西明寺参道のガイドパネル

小杉御殿が建設された西明寺の近辺は、当時の中原区の中心地
でした。現在では武蔵小杉駅の周辺が中心市街地となっています
が、それは鉄道が敷設されてからの話で、それ以前は街道筋が
栄えていました。
1873年(明治6年)、その西明寺の本堂を借りて設立されのが「小杉
学舎」
で、当時の小杉の子どもたちの学び舎となったものです。

■西明寺の本堂
西明寺の本堂

維新後の明治政府は、西洋列強と並び立つために人材育成に注力
することを考え、国民皆学を主旨とする「学制」を1872年(明治5年)に
発布
しています。これにより、6歳~13歳の児童に通学が義務付け
られ、全国に小学校が設置
されることになりました。

明治維新といってもいきなり日本全国津々浦々が近代化されたわけ
ではなく、国土の大半はインフラも整備されていない山林や農村でし
たので、これは当時としてはかなりドラスティックな政策だったものと
思われます。
この学制発布による小学校設置は、江戸幕府時代の寺子屋や私塾が
母体
となりましたが、設備・人材・教育水準・地理的条件などにおいて
未発達な面も多く、
全国各地での設置には大きな困難が伴いました。

小杉学舎ができた1873年(明治6年)頃には全国各地の村々で開校
が相次ぎましたが、当初から専用の学舎を持つところは少なく、民家
や寺社を借りていたケースが多かった
ようです。
小杉学舎もそういったケースのひとつで、独自の学舎ではなく西明寺
の本堂を借りて開校
されています。

また、当時の学校では人的資源(教師)の不足も著しく、実質的に
はお寺の住職が教師を兼任したり、複数の学校を1名の教師が見て
回るだけだったりと質的な課題
もあったようです。
ですが、とにもかくにもこれで近代的な教育が日本全国で始まり、
徐々に現在の学校制度の礎が築かれていったわけです。

■西明寺の参道
西明寺の参道

さて、西明寺の小杉学舎ですが、1901年(明治34年)には参道脇に
尋常中原小学校が創立
されました。現在では跡形もありませんが、
小学校の跡地が一時期青年団の集会所となっていたことがあり、
その青年団が建立した二宮金次郎像が、参道の一角に現在も残さ
れています。

■西明寺の二宮金次郎像
西明寺参道の二宮金次郎像

この参道付近は、2009/11/9エントリ「旧名主家と長屋門」で取り上
げた明治政府の高札の掲示場(高札場)があった場所でもあります。
当時の公共施設が集められた、街の中心地だったのでしょう。

前述の通り、現在では中原区の行政の中心は武蔵小杉駅周辺に
移っていますけれども、中原街道沿いの各所に残されたこれらの
史跡により、かつての賑わいを想像することができますね。

■「西明寺と小杉学舎」マップ
「西明寺と小杉学舎」マップ

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」

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2010年
07月19日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(8):「御蔵稲荷と多摩川」

hatsushimo.gif

川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第8回は、「御蔵稲荷と
多摩川」
です。「御蔵稲荷」は、小杉御殿の跡地として残されてい
るスポットのひとつで、川崎歴史ガイドのガイドパネルが設置され
ています。

2010/3/30エントリ「小杉御殿の御主殿跡」で取り上げましたが、
当時の絵図によれば小杉御殿の敷地内には表御門、御主殿、
御殿番屋敷、御賄屋敷、御蔵、御馬屋敷、裏御門
などが配置さ
れていたことが確認されています。
「御蔵稲荷」は、そのうちのひとつ、御蔵があったとされる場所に
残されている稲荷神社です。

■御蔵稲荷
御蔵稲荷

御蔵稲荷は住宅街の路地の中にあり、なかなか見つけることが
できません。ごく小さな敷地に、稲荷神社のほかに町内会の祭具
倉庫などが設置されています。
写真右手前に立てられているのが、川崎歴史ガイドのガイドパネル
です。

現在、この場所は多摩川沿いから少し離れていますが、小杉御殿が
あった当時は、この御蔵稲荷のすぐ北側が多摩川だったそうです。
つまり、北側にある等々力緑地は東京都側だったのですね。
小杉御殿は、すぐ北側を多摩川という自然の要害によって守られて
いた
わけです。

■御蔵稲荷と多摩川の流れ
御蔵稲荷と多摩川の流れ

その後多摩川は氾濫をくりかえしつつ流れを変え、等々力緑地を
飛び地として中原区側に残して、現在では小杉御殿からは離れた
場所を流れています

飛び地は法令によって各自治体に編入され、現在では解消されて
いますが、等々力という地名が多摩川の両岸に残されているのは、
このような事情によるものです。

■小杉御殿跡の石碑
小杉御殿跡の石碑

この御蔵稲荷には、小杉御殿跡の石碑が建てられており、大きく
「二代将軍秀忠公小杉御殿跡」と書かれています。
小杉御殿は、家康が別荘としての「殿舎」を築き、慶長9年(1604
年)頃から利用されていたようですが、本格的に御殿として創建
したのは秀忠の代であることから、そのような表記になっている
ものと思われます。

■御蔵稲荷の猫
御蔵稲荷の猫

さて、この御蔵稲荷には史跡が残されているということで、神社に
お参りをしてみようと思うと、おや、地元の猫ちゃんが・・・。

■御蔵稲荷の石段
御蔵稲荷の石段

いや、その、私が見たいのはその石段の部分なもので、ちょっと
どいてくださいな。

■「野村文左衛門」の石橋
「野村文左衛門」の石橋

猫ちゃんにどいてもらって御蔵稲荷の拝殿の石段の部分をよく見て
みると、「野村文左衛門」と名前が刻まれています。
これはこれまでの連載でも何回か取り上げてきた野村文左衛門に
よる「八百八橋」の石橋の一部分
で、それが御蔵稲荷の石段として
残されているものです。

これで、八百八橋の石橋は「石橋醤油店」前、武蔵小杉駅北口ロー
タリー、中原区役所、そして今回の御蔵稲荷の4箇所に残されてい
のが確認できました(詳細は関連リンクを参照ください)。
八百八というくらいですから、まだ他にもあるのでしょうか?

御蔵稲荷には当時の御蔵の姿は全く残されていませんが、この
石橋が静かに、地域の歴史を今に伝えていました。

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):丸子の渡しガイドパネル入札不調
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」

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2010年
06月28日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(7):「小杉陣屋と次大夫」

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川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第7回は、「小杉陣屋と
次大夫」
です。

小杉御殿の建設などが行われた徳川家康の治世当初において、
多摩川周辺の土地は非常に生産性の低い状態
でした。水辺であり
ながら水利が悪く、草地や荒地ばかりの中に小さい集落が点在して
いるのみだったようです。

米の増産に取り組んでいた家康は江戸近郊の各地で新田開発を
計画しますが、それにあたって多摩川からの農業用用水路の敷設
を進言し、用水奉行を任されたのが小泉次大夫
でした。
次大夫によって川崎市内に敷設されたのが二ヶ領用水であり、
その拠点となったのが小杉陣屋です。

■現在の二ヶ領用水
現在の二ヶ領用水

「陣屋」とは、江戸時代において各藩の藩庁が置かれた屋敷か、
または幕府直轄領の代官の住居・役所
のことを指します。小泉
次大夫は旗本代官ですので、次大夫の陣屋は後者ということに
なりますね。
ただ、単なるお屋敷というだけではなく、小杉陣屋は言ってみれば
公共工事の現地事務所のような役割だったのではないかと思い
ます。

小泉次大夫は、1597年(慶長2年)より、多摩川両岸の用水路建設
に着手
しましたが、完成までに14年を要する難工事となっています。
陣屋は川崎側の小杉陣屋だけでなく、江戸側の狛江にも設けられ、
次大夫が各地の現場で指揮を取って完成にこぎつけました。

■小杉陣屋の跡地
小杉陣屋の跡地

小杉陣屋の跡地

さて、ガイドパネルが設置されているのはその小杉陣屋の跡地です
が、現在では陣屋の姿は残されていません。住宅街の中の土地に、
ひっそりと小さな神社があるのみです。
ここまでの道は迷路のように入り組んでいますので、たどり着くまでが
非常にわかりづらく、なかなか目に留まることがないかもしれません。

ただ、小杉陣屋は跡形もありませんが、その名前は現在の地名で
ある「小杉陣屋町」として残されています。徳川家康の作った小杉御
殿の名前を残す「小杉御殿町」と同様で、中原街道沿いに隣接した
2つの地名が、地域の歴史を今に伝えています。

また、次大夫は用水路敷設事業の着手にあたり、安房国(千葉県)
小湊の妙本寺から日純という僧を招聘し、小杉御殿の近くに妙泉寺
を建立
しました。
これは事業の無事完遂を祈念したものですが、この事業が当時とし
ていかに大規模かつ困難なものであったかがわかりますね。

■現在の妙泉寺跡地
現在の妙泉寺跡地

次大夫は1611年(慶長16年)に二ヶ領用水等を完成させたのち、
1619年(元和5年)に代官職を長男である吉勝に譲って隠居しました。
その際に、次大夫は妙泉寺を川崎領砂子(川崎区宮前町)に妙遠寺
として移設
しましたので現在の妙泉寺には本堂などが存在せず、
「跡地」ということになります。
ただし現在でも小堂と墓所は残されていまして、そこに次大夫の功績
を称える石碑
があり、川崎歴史ガイドでも紹介されています。

次大夫は1623年(元和9年)、85歳で亡くなりましたが、次太夫の
建設した二ヶ領用水は、現在でもその流域に貴重な水辺を提供
して
います。
小杉陣屋の跡地に立って、草地や荒地ばかりだった多摩川流域の
発展を支えた先人の努力を思いました。

■「小杉陣屋と次大夫」マップ
「小杉陣屋と次大夫」マップ

【関連リンク】
武蔵小杉ライフ:生活情報:公園:公開空地 二ヶ領用水
武蔵小杉ライフ:生活情報:神社・仏閣 西明寺
2008/8/8エントリ 中原街道のカギ道(前編):小杉御殿と西明寺
2008/8/9エントリ 中原街道のカギ道(後編):拡幅と直線化の見通し

(以下、川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):丸子の渡しガイドパネル入札不調
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」

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