武蔵小杉ブログ(武蔵小杉ライフ 公式ブログ)

川崎市中原区の再開発で変貌する街・武蔵小杉のタウン情報サイト『武蔵小杉ライフ』の公式ニュースブログ。街の最新情報やさまざまな話題をご紹介します。

2010年
07月19日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(8):「御蔵稲荷と多摩川」

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川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第8回は、「御蔵稲荷と
多摩川」
です。「御蔵稲荷」は、小杉御殿の跡地として残されてい
るスポットのひとつで、川崎歴史ガイドのガイドパネルが設置され
ています。

2010/3/30エントリ「小杉御殿の御主殿跡」で取り上げましたが、
当時の絵図によれば小杉御殿の敷地内には表御門、御主殿、
御殿番屋敷、御賄屋敷、御蔵、御馬屋敷、裏御門
などが配置さ
れていたことが確認されています。
「御蔵稲荷」は、そのうちのひとつ、御蔵があったとされる場所に
残されている稲荷神社です。

■御蔵稲荷
御蔵稲荷

御蔵稲荷は住宅街の路地の中にあり、なかなか見つけることが
できません。ごく小さな敷地に、稲荷神社のほかに町内会の祭具
倉庫などが設置されています。
写真右手前に立てられているのが、川崎歴史ガイドのガイドパネル
です。

現在、この場所は多摩川沿いから少し離れていますが、小杉御殿が
あった当時は、この御蔵稲荷のすぐ北側が多摩川だったそうです。
つまり、北側にある等々力緑地は東京都側だったのですね。
小杉御殿は、すぐ北側を多摩川という自然の要害によって守られて
いた
わけです。

■御蔵稲荷と多摩川の流れ
御蔵稲荷と多摩川の流れ

その後多摩川は氾濫をくりかえしつつ流れを変え、等々力緑地を
飛び地として中原区側に残して、現在では小杉御殿からは離れた
場所を流れています

飛び地は法令によって各自治体に編入され、現在では解消されて
いますが、等々力という地名が多摩川の両岸に残されているのは、
このような事情によるものです。

■小杉御殿跡の石碑
小杉御殿跡の石碑

この御蔵稲荷には、小杉御殿跡の石碑が建てられており、大きく
「二代将軍秀忠公小杉御殿跡」と書かれています。
小杉御殿は、家康が別荘としての「殿舎」を築き、慶長9年(1604
年)頃から利用されていたようですが、本格的に御殿として創建
したのは秀忠の代であることから、そのような表記になっている
ものと思われます。

■御蔵稲荷の猫
御蔵稲荷の猫

さて、この御蔵稲荷には史跡が残されているということで、神社に
お参りをしてみようと思うと、おや、地元の猫ちゃんが・・・。

■御蔵稲荷の石段
御蔵稲荷の石段

いや、その、私が見たいのはその石段の部分なもので、ちょっと
どいてくださいな。

■「野村文左衛門」の石橋
「野村文左衛門」の石橋

猫ちゃんにどいてもらって御蔵稲荷の拝殿の石段の部分をよく見て
みると、「野村文左衛門」と名前が刻まれています。
これはこれまでの連載でも何回か取り上げてきた野村文左衛門に
よる「八百八橋」の石橋の一部分
で、それが御蔵稲荷の石段として
残されているものです。

これで、八百八橋の石橋は「石橋醤油店」前、武蔵小杉駅北口ロー
タリー、中原区役所、そして今回の御蔵稲荷の4箇所に残されてい
のが確認できました(詳細は関連リンクを参照ください)。
八百八というくらいですから、まだ他にもあるのでしょうか?

御蔵稲荷には当時の御蔵の姿は全く残されていませんが、この
石橋が静かに、地域の歴史を今に伝えていました。

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):丸子の渡しガイドパネル入札不調
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」

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2010年
06月28日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(7):「小杉陣屋と次大夫」

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川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第7回は、「小杉陣屋と
次大夫」
です。

小杉御殿の建設などが行われた徳川家康の治世当初において、
多摩川周辺の土地は非常に生産性の低い状態
でした。水辺であり
ながら水利が悪く、草地や荒地ばかりの中に小さい集落が点在して
いるのみだったようです。

米の増産に取り組んでいた家康は江戸近郊の各地で新田開発を
計画しますが、それにあたって多摩川からの農業用用水路の敷設
を進言し、用水奉行を任されたのが小泉次大夫
でした。
次大夫によって川崎市内に敷設されたのが二ヶ領用水であり、
その拠点となったのが小杉陣屋です。

■現在の二ヶ領用水
現在の二ヶ領用水

「陣屋」とは、江戸時代において各藩の藩庁が置かれた屋敷か、
または幕府直轄領の代官の住居・役所
のことを指します。小泉
次大夫は旗本代官ですので、次大夫の陣屋は後者ということに
なりますね。
ただ、単なるお屋敷というだけではなく、小杉陣屋は言ってみれば
公共工事の現地事務所のような役割だったのではないかと思い
ます。

小泉次大夫は、1597年(慶長2年)より、多摩川両岸の用水路建設
に着手
しましたが、完成までに14年を要する難工事となっています。
陣屋は川崎側の小杉陣屋だけでなく、江戸側の狛江にも設けられ、
次大夫が各地の現場で指揮を取って完成にこぎつけました。

■小杉陣屋の跡地
小杉陣屋の跡地

小杉陣屋の跡地

さて、ガイドパネルが設置されているのはその小杉陣屋の跡地です
が、現在では陣屋の姿は残されていません。住宅街の中の土地に、
ひっそりと小さな神社があるのみです。
ここまでの道は迷路のように入り組んでいますので、たどり着くまでが
非常にわかりづらく、なかなか目に留まることがないかもしれません。

ただ、小杉陣屋は跡形もありませんが、その名前は現在の地名で
ある「小杉陣屋町」として残されています。徳川家康の作った小杉御
殿の名前を残す「小杉御殿町」と同様で、中原街道沿いに隣接した
2つの地名が、地域の歴史を今に伝えています。

また、次大夫は用水路敷設事業の着手にあたり、安房国(千葉県)
小湊の妙本寺から日純という僧を招聘し、小杉御殿の近くに妙泉寺
を建立
しました。
これは事業の無事完遂を祈念したものですが、この事業が当時とし
ていかに大規模かつ困難なものであったかがわかりますね。

■現在の妙泉寺跡地
現在の妙泉寺跡地

次大夫は1611年(慶長16年)に二ヶ領用水等を完成させたのち、
1619年(元和5年)に代官職を長男である吉勝に譲って隠居しました。
その際に、次大夫は妙泉寺を川崎領砂子(川崎区宮前町)に妙遠寺
として移設
しましたので現在の妙泉寺には本堂などが存在せず、
「跡地」ということになります。
ただし現在でも小堂と墓所は残されていまして、そこに次大夫の功績
を称える石碑
があり、川崎歴史ガイドでも紹介されています。

次大夫は1623年(元和9年)、85歳で亡くなりましたが、次太夫の
建設した二ヶ領用水は、現在でもその流域に貴重な水辺を提供
して
います。
小杉陣屋の跡地に立って、草地や荒地ばかりだった多摩川流域の
発展を支えた先人の努力を思いました。

■「小杉陣屋と次大夫」マップ
「小杉陣屋と次大夫」マップ

【関連リンク】
武蔵小杉ライフ:生活情報:公園:公開空地 二ヶ領用水
武蔵小杉ライフ:生活情報:神社・仏閣 西明寺
2008/8/8エントリ 中原街道のカギ道(前編):小杉御殿と西明寺
2008/8/9エントリ 中原街道のカギ道(後編):拡幅と直線化の見通し

(以下、川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):丸子の渡しガイドパネル入札不調
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」

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2010年
05月23日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):「中原区役所の八百八橋」

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2009/11/29エントリ「川崎歴史ガイド・中原街道ルート(4)」において
中原街道の「八百八橋」をご紹介しました。
「八百八橋」とは、1772年から1781年にかけて、上丸子で肥料店を
営んでいた野村文左衛門が私財を投じて各地に架けた
もので、現在
でもその石橋の一部が残されています。

2009/12/21エントリでは、JR武蔵小杉駅北口に移設展示されている
石橋をご紹介しましたが、同様に中原区役所の敷地内にも展示され
ているのを見かけました。

■中原区役所の南側
中原区役所の南側

石橋が展示されているのは、中原区役所の正面玄関に向かって
右側、建物の角を曲がってすぐ(建物の南側)のところです。

■八百八橋の展示スペース
八百八橋の展示スペース

多分、ここを通ったことは以前にもあると思うのですが、一見して何か
の遺構が展示されているとは見えないものですから、気付いていま
せんでした。

■八百八橋
八百八橋

植栽部分に横たわった大きな石材が八百八橋の一部で、すぐ側に
「八百八橋」と書かれた小さな石碑が立っています。
JR武蔵小杉駅北口や、中原街道沿いの石橋醤油店に移設されてい
るものとほぼ同じ形
ですね。

■八百八橋の由来
八百八橋の由来

すぐ隣に、八百八橋の由来を説明する石碑がありまして、これによる
と、ここで展示されている石橋の側面には、「安永二年」と書かれて
いるそうです。
安永二年というと1774年ですから、野村文左衛門による比較的初期
の八百八橋
ということになります。

この石碑は1981年に武蔵中原観光協会によって設置されたもので、
おそらくその際にどこからか石橋が移設されたものと思います。

■川崎市ウェブサイト 川崎市の文化情報
http://www.city.kawasaki.jp/25/25bunka/home/top/shigen/
kinenhi/kinenhi_nakaharaku.html


上記ウェブサイトは川崎市の文化財等の情報を掲載したものです
が、ここではJR武蔵小杉駅北口の八百八橋のみが掲載され、中原
街道や中原区役所の展示については触れられていません。
本サイトでご紹介した3箇所以外にもあるのかどうか、正確なところは
わかりません。ウェブベースでは情報が見当たらないようですが・・・。

■中原区ウェブサイト 平成22年度中原区協働推進事業計画一覧
http://www.city.kawasaki.jp/65/65soumu/home/soumu75/
soumu75_09.htm


中原区のウェブサイトを参照すると、本年度の区民との協働推進
事業
の中に、「なかはら八百八橋プロジェクト」として、下記のような
事業が計画されています。

「区役所敷地内に設置されている、区の重要な歴史資源である八百
八橋の有効活用を図り、新旧住民に区の郷土意識醸成を目的とし、
八白八橋周辺の整備を行う。」

協働推進事業については、これを含む数多くの事業に予算が付いて
いますので、本年度に何らかの整備を行うようです。

確かに、この八百八橋の展示、「物好き」な私があちこち動き回って
やっと気付いたものですので、ほとんどの区民の方はご存じないの
ではないでしょうか。
地域の歴史を伝える折角の遺産であれば、有効活用を図るという
のは良いことと思います。

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):丸子の渡しガイドパネル入札不調
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」

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2010年
03月30日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(6):「小杉御殿の御主殿跡」

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川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第5回は、「小杉御殿の
御主殿跡」
です。

■「小杉御殿と『カギ』の道」のガイドパネル
「小杉御殿と『カギ』の道」のガイドパネル

まずは前回の「小杉御殿と『カギ』の道」のガイドパネルから参照
してみましょう。
小杉御殿の敷地は約40,000㎡、図面で残されているところによる
と、その中には表御門、御主殿、御殿番屋敷、御賄屋敷、御蔵、
御馬屋敷、裏御門
などが配置されていました。

それらの建築物は現在では一切残っていないのですが、今回取り
上げる御主殿の跡地にはガイドパネルが立てられています。

■「小杉御殿の御主殿跡」のガイドパネル
「小杉御殿の御主殿跡」のガイドパネル

ここは中原街道のカギ道から北側に少し入ったところで、住宅地
の狭間に小さな稲荷があります。ここが小杉御殿の御主殿があっ
た場所で、現在ではこの「御主殿稲荷」が祀られています。

「御主殿稲荷」以外にも、「陣屋稲荷」「御蔵稲荷」という稲荷も残さ
れていまして、こちらもそれぞれの名前の建物の跡地にあたります。
これらについても川崎歴史ガイドでピックアップされていますので、
次回以降ご紹介していく予定です。

今回の「小杉御殿の御主殿跡」(御主殿稲荷)、次回以降の「小杉
陣屋と次大夫」
(陣屋稲荷)、「御蔵稲荷と多摩川」(御蔵稲荷)は、
川崎歴史ガイドの中でもかなりわかりづらい場所にありますので、
パンフレットのマップをよく見て探索する必要があります。

川崎市文化財団もわかりづらいことを認識されているのでしょう、
西明寺の入口近くに現地の拡大マップを掲載したガイドパネル
立てられていました。

■小杉御殿周辺のガイドパネル案内図
小杉御殿周辺のガイドパネル案内図

パンフレットのマップをお持ちでない場合、これを参照されると良いと
思います。

なお、川崎歴史ガイドでは紹介されていないのですが、小杉御殿の
うち表御門については、西明寺の入口から丸子橋方面を振り返ると、
街道沿いの塀の上にガイドパネルがのぞいています。

■表御門のガイドパネル
表御門のガイドパネル

ただ、これは本当にパネルがあるだけで、実際に表御門をしのばせ
るものは現在は残っていません。このあたりだった、ということですね。
パネルの下部を見ると、「武蔵中原観光協会」とあります。川崎市
文化財団の「川崎歴史ガイド」とは別に設置
されたもののようです。
そのため、「川崎歴史ガイド」のパンフレットには載っていないので
すね。

■川崎市観光協会連合会公式サイト 武蔵中原観光協会
http://www.k-kankou.jp/kkanko/modules/kyoukai/
index.php?content_id=8


武蔵中原観光協会といえば、上記のウェブサイトにも記載があります
が、2009/11/29エントリ「明治の醤油作りと八百八橋」で取り上げた
八百八橋の顕彰碑設置や移設などを行っていました。
川崎市文化財団と連携はしているのでしょうが、こういったガイドパネ
ルの案内は一元化しておいた方が良いかな、と思いました。

さて、今回は以上です。小杉御殿周辺の歴史をめぐる散策はまだ
3回ほど続きまして、次回は「小杉陣屋と次大夫」です。

■「小杉御殿の御主殿跡」マップ
「小杉御殿の御主殿跡」マップ

【関連リンク】
武蔵小杉ライフ:生活情報:神社・仏閣 西明寺
2008/8/8エントリ 中原街道のカギ道(前編):小杉御殿と西明寺
2008/8/9エントリ 中原街道のカギ道(後編):拡幅と直線化の見通し
2009/9/23エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(4):「明治の醤油作りと
八百八橋」

2009/12/21エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):「武蔵小杉駅の
八百八橋」

2010/2/9エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):丸子の渡しガイド
パネル入札不調

2010/2/14エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(5):「小杉御殿と『カギ』
の道」

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2010年
02月14日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(5):「小杉御殿と『カギ』の道」

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川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載5回目は、「小杉御殿と
『カギ』の道」
です。これについては2008/8/8エントリ及び2008/8/9
エントリ
で一度取り上げていまして、今回は川崎歴史ガイドのシリー
ズ化にあたり、その過去エントリを再編集のうえ収録したものです。

■中原街道のカギ道
中原街道のクランク(写真)

前回の石橋醤油店を通過して数分歩くと、大きなクランクにぶつか
ります。これが「中原街道のカギ道」と呼ばれるものです。

このカギ道の由来は江戸時代初期にさかのぼりまして、初代将軍
徳川家康が作らせた「小杉御殿」にゆかりがあります。

小杉御殿は、家康が鷹狩りを好んだことから作らせたいくつかの
宿泊所のひとつで、現在の「小杉御殿町」という地名はそこから
名付けられたものです。
小杉御殿は、家康が別荘としての「殿舎」を築き、慶長9年(1604)年
頃から利用
されていたようです。その後秀忠の代を経て、家光が
「御殿」として完成
させました。家光の代には、まだ東海道が未整備
であったことから、西国大名の参勤交代の休憩場としても利用され
ていたものです。
その後寛永元年(1624年)に東海道が整備されると中原街道の往来
は減少し、小杉御殿は万治3年(1660年)に廃止
されました。

そこで中原街道のクランク(カギ道)の話に戻りますと、

これは将軍をはじめとする要人が宿泊するために、容易に攻め込ま
れないよう、守りを固めるためにあえて周辺の道をカギ状にした
もの
で、それが現在の道路にも残っているのだそうです。城下町のお城
周辺の道などによくみられる構造ですね。
カギ道だけでなく、小杉御殿の周囲を西明寺、泉澤寺といった仏閣が
囲んでいるのも、御殿を守る地理的な役割があった
ようです。

西明寺は、小杉御殿の建設とほぼ同時期に有馬村(現在の神奈川県
高座郡)から現在地に移された寺院で、徳川家康が鷹狩りの休憩に
滞在したと伝えられています。
こういった経緯から、西明寺は小杉御殿、徳川家とゆかりの深い寺院
として現在も残っています。

■西明寺の入口
西明寺の入口

丸子橋方面からこのカギ道にぶつかった正面に西明寺があります
が、その入口に川崎歴史ガイドのガイドパネルが立っています。

■「小杉御殿と『カギ』の道」のガイドパネル
「小杉御殿と『カギ』の道」のガイドパネル

ここでは、これまでのガイドパネルとは異なり、当時の図面も掲載
された大きなパネルになっています。
この図面は2009/11/9エントリ「旧名主家と長屋門」で取り上げた
安藤家に所蔵された「小杉御殿見取絵図」で、小杉御殿の全体像を
把握することができます。

さて、中原街道のカギ道ですが、現在拡幅及び直線化のための
用地買収
が少しずつ進んでいます。

■中原街道改良工事 取得済み用地(小杉十字路付近)
中原街道改良工事 取得済み用地(小杉十字路付近)

■川崎市建設局 川崎市の道路整備プログラム
http://www.city.kawasaki.jp/53/53doukei/home/seibi_program/
seibi_program_plan.htm


川崎市の道路整備プログラムによれば、この改良工事は2014年
までに完成させる計画
となっています。進捗はというと、一応用地の
取得率も少しずつ上がってはいるようです。

直線化の時期は多少未確定な部分もありそうですが、400年続いた
このカギ道
の存在も、いずれは昔話となるのでしょうね。

■「小杉御殿と『カギ』の道」マップ
「小杉御殿と『カギ』の道」マップ

【関連リンク】
武蔵小杉ライフ:生活情報:神社・仏閣 西明寺
2008/8/8エントリ 中原街道のカギ道(前編):小杉御殿と西明寺
2008/8/9エントリ 中原街道のカギ道(後編):拡幅と直線化の見通し
2009/9/23エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(3):「旧名主家と長屋門
2009/11/29エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(4):「明治の醤油作りと
八百八橋」

2009/12/21エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):「武蔵小杉駅の
八百八橋」

2010/2/9エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):丸子の渡しガイド
パネル入札不調

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2010年
02月09日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):丸子の渡しガイドパネル入札不調

hatsushimo.gif

今回はまた番外編です。
大きな話題ではないのですが、川崎歴史ガイド・中原街道ルート
起点である「丸子の渡し」のガイドパネル設置工事の入札が2010年
2月5日に行われましたが、不調に終わりました


このガイドパネルについては、現在行方不明であることを2009/9/23
エントリ
で取り上げました。長らく消失したままだったものがこのたび
予算化され、設置しなおされる運び
となったのですが、応札する業者
がいなかったのか、残念ながら工事の発注ができませんでした。

■川崎市文化財団 川崎歴史ガイド 中原街道
http://homepage2.nifty.com/k-bunkazaidan/guide/03.htm
※ページ最下部にガイドパネル行方不明に関する記載あり

■ガイドパネルが設置されていた丸子橋付近
ガイドパネルが設置されていた丸子の渡し

・・・入札不調の場合、どうなるんでしょうね。再度入札をかけるので
しょうか?

■建通新聞神奈川 横浜市の一般競争、応札者減少 本紙調査
http://www.kentsu.co.jp/kanagawa/news/p02230.html

上記は、横浜市や川崎市の公共工事における応札者の減少に関す
る記事です。これによると、

・横浜市、川崎市が設定する材料費などの設計単価が低く、予定
価格をクリアできないケースが多い
・予定価格が実行価格と比較して3,4割安い
・年度末に工事が集中して人員配置ができない


上記のような工事業者側の意見が取り上げられています。
まあ、地方自治体側には市民から付託された税金を最大限効率的
に活用する義務
がありますので、経費を厳しく見るのは当然といえば
当然です。
一方、取り上げているのは建設業界紙である建通新聞ですので、
建設業者側の立場を代弁しているという面もあるのでしょうが、確かに
工事業者も何かと厳しい状況なのだろうな、と心証としては思います。

このあたりは私も素人ですので、入札予定価格や設計単価が適切か
どうかの判断はつきません。
ただ、期末は繁忙期で相対的に応札しにくい、というのは確かにあり
そうですね。

今回のガイドパネル設置工事、どう考えても大規模な工事ではない
はずで、確かに金額的には利益の大きい仕事ではないかもしれま
せんが、入札不調でガイドパネルが設置できないのは誠に残念です。
どなたか応札していただけると良いのですが・・・。

さて、番外編が2回続きましたが、川崎歴史ガイドの本編連載記事
自体は、実はもっと先まで書きあがっています。エントリまで少々
お待ちくださいませ。

■川崎歴史ガイドのパンフレット
川崎歴史ガイドのパンフレット

■川崎歴史ガイドのガイドパネル
川崎歴史ガイドのガイドパネル

【関連リンク】
2009/9/23エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(4):「明治の醤油作りと
八百八橋」

2009/12/21エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):「武蔵小杉駅の
八百八橋」

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2009年
12月21日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):武蔵小杉駅の八百八橋

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2009/11/29エントリ「川崎歴史ガイド・中原街道ルート(4)」において、
中原街道の「八百八橋」について取り上げました。
「八百八橋」とは、1772年から1781年にかけて上丸子で「ほしか屋」
という肥料店を営んでいた野村文左衛門が私財を投じて中原街道
沿いの各地に架けた石橋
のことです。
野村文左衛門は「人々のために1,000の橋を架ける」という志により
この事業を行い、その功績を讃えて「八百八橋」と呼ばれるようになり
ました。

■石橋醤油店に移設された八百八橋と記念碑
石橋醤油店に移設された八百八橋と記念碑

前回は上記の写真のように、その石橋の一部が中原街道沿いの
石橋醤油店に移設
されていることをメインに取り上げたのですが、
それ以外に、JR武蔵小杉駅ロータリーにも石橋の一部が移設展示
されています。
今回は「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」の番外編として、その
武蔵小杉駅ロータリーの八百八橋をご紹介したいと思います。

■JR武蔵小杉駅ロータリー
JR武蔵小杉駅ロータリー

さて、ここは武蔵小杉駅北口ロータリーの見慣れた風景ですが、
「はて、そんな石橋の展示あったかしら?」という方も多いのでは
ないでしょうか。

■ロータリーの歩道橋
ロータリーの歩道橋

石橋と石碑の展示があるのは、このフロンターレカラーの歩道橋の
近く
で、確かに歩道橋沿いに石碑はあったような・・・と思いつつ周辺
を探してみると・・・石碑と石橋を見つけることができました。

■八百八橋の顕彰碑
八百八橋の顕彰碑

まず、石碑が歩道橋のすぐそばに建立されているのは比較的すぐ
に目に付きます。そして移設された石橋の一部はというと、この石碑
の少々手前にありました。

■移設された八百八橋
移設された八百八橋

これが移設された八百八橋の一部で、現在ではアスファルトに埋め
込まれたかたち
になっており、石橋としての原型は残っていません。

当初、1964年に武蔵中原観光協会が八百八橋の顕彰碑とともに
石橋を一部復元
した際には石碑の前の地面に露出するかたちで
展示されていたのですが、ロータリーの拡張に伴って現在の姿に
なったそうです。

1964年当初の展示については、新丸子の情報サイト「新丸子タウン
情報マップ」の「MARUKO TOWN GALLERY」に当時の写真が
掲載
されていますので、そちらもご参照ください。

■新丸子タウン情報マップ MARUKO TOWN GALLERY
http://www.alles.or.jp/~salut/gallery20020427.html
※一番右上に該当する写真が掲載されています。

地面に埋め込んでしまう、というのはなかなか意外な展示方法でし
たが、野村文左衛門の志は「多くの人に渡ってもらいたい」という
ことだったのでしょうから、毎日ロータリーを行き交う人々が踏み
しめるアスファルトの一部になるというのは、ひとつの考え方として
ありなのかもしれません。

ただ、一体化している分存在があまり知られていないような気がいた
しまして(ウェブでもほとんど情報がありません)、今回「川崎歴史
ガイド」の連載本編からピックアップして取り上げることといたしました。

【関連リンク】
2009/9/23エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(4):「明治の醤油作りと
八百八橋」

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2009年
11月29日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(4):「明治の醤油作りと八百八橋」

hatsushimo.gif

川崎歴史ガイド・中原街道ルートをめぐる連載第4回目は、「明治の
醤油作りと八百八橋」
です。
これは、川崎歴史ガイドのオフィシャルガイド上においては、中原街道
において明治3年(1870年)から醤油の醸造を行っていた石橋醤油店
のみを取り上げたものですが、本エントリでは「八百八橋」の歴史に
ついてもあわせてご紹介します。

■石橋醤油店(現在は営業していません)
石橋醤油店(現在は営業していません)

■「明治の醤油作り」のガイドパネル
「明治の醤油作り」のガイドパネル

前回の「旧名主家と長屋門」からさらに歩いていくと、西明寺のカギ
道よりも手前に石橋醤油店の建物が見えてきます。その近くにガイド
パネル
が立っているのですが、この後ろの広い敷地が、石橋醤油店
がかつて醸造をしていた場所
です。

ガイドパネルの後ろにはちょっとしたスペースがありまして、そこに
展示されているのは・・・、

■移設された八百八橋と記念碑
移設された八百八橋と記念碑

これは、別の場所から移設された八百八橋の一部と、記念碑です。
「八百八橋」とは、1772年から1781年にかけて上丸子で「ほしか屋」
という肥料店を営んでいた野村文左衛門が私財を投じて中原街道
沿いの各地に架けた石橋
のことです。
実際に808もの橋があったかどうかわかりませんが、野村文左衛門は
「人々のために1,000の橋を架ける」という志を持っていたようです。
その功績を讃えて、後年「八百八橋」と呼ばれるようになりました。

1964年には武蔵中原観光協会が八百八橋の顕彰碑とともに石橋を
一部復元し、武蔵小杉駅北口駅前広場に展示
しましたが、広場の
拡張により顕彰碑と歩道に埋め込まれた石橋の一部が残されるだけ

になってしまいました。
日常的に通行されていても、「え、どこのこと?」と思われる方もいら
っしゃるのではないでしょうか?
(これについてはまた後日エントリします)

そこで、NPO法人小杉駅周辺エリアマネジメントが、2008年2月16
日に「八百八橋を探せ」というワークショップを企画し、地域の子ども
たちと街に残された八百八橋を探し出し、関係各所の協力を得て
保存
を行いました。

■「こすぎこども探検隊」八百八橋を探せ! ワークショップのまとめ
http://musashikosugi.or.jp/media/PDF/workshop-808-0.pdf

エリマネによる上記のまとめにも記載されていますが、発見された
石橋の保存に当たっては、鹿島建設が施工協力したほか、石橋醤油
店が無償で場所の提供
を行っています。

・・・ん? 石橋醤油店・・・「石橋」?
そうです。実は、石橋醤油店も、かつて地域に多くの石橋を寄贈した
ことに由来して石橋醤油店という屋号になっている
もので、中原街道
周辺で数多く設置された石橋には深いゆかりをもっています。
野村文左衛門が架けた石橋を保存するのには、まさにふさわしい
場所ではないかと思います。
この石橋の保存にあたり、石橋醤油店も「子どもたちのためなら」と
快く場所を提供され、2008年5月18日には移設展示記念セレモニー
が実施されました。

■八百八橋移設展示記念セレモニー
八百八橋移設展示記念セレモニー

このセレモニーでは醤油の醸造所を利用した音楽イベントも行われ、
本ブログでもたびたび登場しているNPO法人カワサキミュージック
キャスト
が運営を行っていました。

■醸造所での「ちょっきんず」ライブ
醸造所での「ちょっきんず」ライブ

ライブを行ったのは、こちらもおなじみ「ちょっきんず」。川崎生まれの
三人姉妹のバンドです。
写真右奥には、醤油を醸造するための巨大な樽が見えますね。

■巨大な樽
巨大な樽

人の身長よりも高い樽には、梯子がかけられています。天井に頭を
ぶつけそうな高さです。

■並べられた樽
並べられた樽

樽はひとつではなく、醸造所のなかにいくつも並べられています。
この写真は音楽イベントの設営をしているところですが、手前で
機材の調整をしていらっしゃるのはカワサキミュージックキャスト
理事長の反町充宏さん
です。
(関連リンクのインタビューなどもご参照ください)

■頭上の樽
頭上に見える樽

頭上を見上げると、天井近くの高いところにも樽が並べられていま
す。この醸造所で、たくさんの醤油がつくられていたことが偲ばれ
ますね。

■醸造の道具
醸造の道具

一方足元を見ると、醤油の醸造に使われたと思われる古い道具
たくさん残されています。具体的にどのような使い方をしていたのか
わかりませんが、いずれも歴史を感じさせる古いものです。

■「石橋醤油店」
「石橋醤油店」

壁際の桶には、はっきりと「石橋醤油店」の文字がありました。写真
にはありませんが、石橋醤油店は当時「キッコー文山」という商標を
使用していまして、そのマークが今でも残っています。

さて、歴史ある石橋醤油店も、現在では営業を行っていません。
川崎市文化財団のウェブサイトに記載がありますが、川崎歴史ガイド
を探訪されている方やガイドパネルをご覧になった方が何かと質問
をされて、ご迷惑になったりもしているようです。

■川崎市文化財団 川崎歴史ガイド 中原街道ルート
http://homepage2.nifty.com/k-bunkazaidan/guide/03.htm
(※ページ下部に注意書きがあります)

こういった歴史めぐりをされる方は探究心豊かでいらっしゃることが
多いのだと思いますが、歴史ガイドをめぐるにあたってはあくまで
パネルと旧跡を眺める程度に留めておくのが良いですね。

・・・というわけで、第4回は石橋醤油店と八百八橋についてあわせて
ご紹介いたしました。八百八橋移設展示記念セレモニーと醸造所の
写真につきましては、中原区およびNPO法人カワサキミュージック
キャストよりご提供
をいただきました。ありがとうございました。

次回の第5回は、「小杉御殿と『カギ』の道」です。

■旧石橋醤油店 マップ
旧石橋醤油店

【関連リンク】
NPO法人小杉駅周辺エリアマネジメント 公式ウェブサイト
NPO法人カワサキミュージックキャスト 公式ウェブサイト
2008/8/8エントリ 中原街道のカギ道(前編) 小杉御殿と西明寺
2009/2/11エントリ In Unity2009 反町充宏実行委員長インタビュー(前編)
2009/2/12エントリ In Unity2009 反町充宏実行委員長インタビュー(後編)
2009/9/23エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(3):「旧名主家と長屋門」

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2009年
11月09日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(3):「旧名主家と長屋門」

hatsushimo.gif

川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第3回は、「旧名主家と長屋
門」
です。
第2回の旧原家母屋跡地からわずか30秒足らず武蔵中原方面に
歩いたところに、川崎歴史ガイドのガイドパネルが立っています。
ここが、旧名主家・安藤家の長屋門です。

■「旧名主家と長屋門」のガイドパネル
「旧名主家と長屋門」のガイドパネル

前回の原家も名主をつとめた旧家でしたが、安藤家もかつては
北条氏(小田原北条氏)に仕えたといわれる旧家
でした。
北条氏が1590年に豊臣秀吉に敗れ没落するとともに土着・帰農し、
江戸時代には近隣一体の割元名主をつとめていたそうです。

割元名主とは、近隣一体の名主たちと代官との間で法令の伝達や
年貢の取りまとめにあたる役割を担っていた名主の代表格で、
安藤家が代官から賜ったとされる立派な長屋門が現在もここに
残っています。

■安藤家の長屋門とアプローチ
安藤家の長屋門

この長屋門は、江戸時代の中期に江戸の代官屋敷から移築された
ものと伝えられています。長屋門を正面から見てみると、アプローチ
が非常に長く、風格を感じますね。

■長屋門(拡大)
長屋門(拡大)

写真ではわかりませんが、この長屋門の内側には慶応4年(明治
元年・1868年)に発令された高札
が飾られています。高札とは、
古代から明治時代初期にかけて法令を民衆に周知するために、
木製の札を人目につきやすい街中に立てたもので、この付近では
西明寺の参道入口付近に設置
されていたようです。
それが現在では長屋門の内側に保存されており、現在でも当時の
法令を読むことができます。

■長屋門そばに保存された高札の文面
 定
一、人たるもの五倫の道を正しくすべき事
一、鰥寡(かんか)孤独廃疾のものを憫むべき事
一、人を殺し、家を焼き、財を盗む等の悪行あるまじき事
慶応四年三月 太政官


一つ目の「五倫の道」とは儒教の教えですね。儒教では、五常(仁・
義・礼・智・信)という徳性を育てることにより五倫(父子・君臣・夫婦・
長幼・朋友)関係を強める
ことを教えています。
「五倫の道を正しくすべきこと」とは、徳を育てて人の様々な絆を大切
にせよ、という人の道の基本を説いたものでしょう。

二つ目の「鰥寡孤独」とは、親兄弟など身寄りのない人のことで、
「廃疾」とは身体障碍のことです。身寄りの無い人や障碍のある人を
大切にせよ、ということですね。

三つ目は、そのまま読んだとおりで、殺人・放火・窃盗などの悪行
戒めています。江戸時代では放火は現在よりもはるかに重罪でした
ので、明治初期のこの高札においても、数ある悪行の中でも特筆
されているものと思います。

なお、この高札の立てられた時期に関して、「川崎歴史ガイド」の冊子
では「明治4年に発令」という記述がありますが、これは慶応4年(明治
元年・1868年)の誤り
です。
この高札の文面を読むと、明治維新後の新政府が発した「五榜の
掲示」という5つの高札のうちのひとつ
であることがわかります。
これは「五ヶ条の御誓文」が出された慶応4年(明治元年・1868)3月
14日の翌日、明治新政府が旧幕府の高札を撤去し、その代わりに
立てられた
ものであり、その発令時期が確認できます。

「五傍の掲示」のうち、この高札を含む3つは「定三札」といわれ、期限
を定めず掲示し続けるものとされましたが、印刷物などの情報伝達
手段の発達により、やがて存在意義が薄れるようになってきます。
その結果、この「五榜の掲示」を最後に、高札による法令の伝達は
明治6年(1873年)2月24日をもって廃止
されました。
つまり、今回の長屋門の高札は、「最後の高札」といえるわけですね。

また高札以外にも、安藤家には古文書や絵画などの文化財が残され
ていて、現在では貴重な史料となっています。
川崎歴史ガイド・中原街道ルートで歴史をたどるにあたっては、それ
らの史料が大きな役割を果たしているものです。

■「旧名主家と長屋門」マップ
「旧名主家と長屋門」マップ

【関連リンク】
2009/9/23エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(2):「旧原家母屋跡地」

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2009年
10月06日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(2):旧原家母屋跡地

hatsushimo.gif

川崎歴史ガイド・中原街道ルートをめぐる連載2回目です。
今回は、丸子橋から東急線のガードをくぐり、しばらく歩いた先の
「旧原家母屋跡地」をご紹介します。

■旧原家母屋跡地
旧原家母屋跡地

「旧原家母屋跡地」ですが、ここには中原街道ルートの全体マップの
ガイドパネルがあるだけで、川崎歴史ガイドの歴史スポットとしては
位置づけられていません。

そのため、ガイドブックにも記載されていないのですが、中原街道を
歩いていけばすぐに目に留まるような立派な門構えであり、ガイド
パネルの隣には石碑が建てられています。

■「旧原家母屋跡地」の石碑
旧原家母屋跡地の石碑

これによると、原家九代目の文次郎氏は、1889年から24年の歳月
をかけて、この地に母屋を1913年に完成
させたそうです。
総ケヤキ造りの母屋は、当時の高度な木造建築技術を駆使した
建築物であり、2001年に川崎市の重要歴史記念物に指定されて
います。

現在では十一代目正巳氏の願いもあり、母屋は多摩区の川崎市立
日本民家園に移築
され、多くの人が郷土や先人の智恵について学ぶ
学習室として利用されているものです。

■川崎市立日本民家園ウェブサイト 施設案内 旧原家住宅
http://www.city.kawasaki.jp/88/88minka/home/x-metc.htm#etc_3

■中原街道の道標
中原街道の道標

また、石碑の近くには、中原街道の道標も建っています。
「右 東京 十粁(10キロメートル)」、「左 平塚 五十粁(50キロ
メートル)」
となっています。
「東京」と書いてありますのでこれは古いものではないのでしょうが、
中原街道は江戸から平塚の中原までを結ぶ街道であったため、
平塚までの距離が記載されているわけです。

原家は名主をつとめた名家で、現在でも立派なお屋敷が残ってい
ます。江戸時代から手広く肥料商を営み、石橋を多くの場所に架け
たことから石橋という屋号で呼ばれていたようです。
中原街道ルートのもう少し先、「木月堀と『くらやみ』」というスポット
でお屋敷が紹介されています。

■「旧原家母屋跡地」マップ
「旧原家母屋跡地」マップ

【関連リンク】
川崎市立日本民家園 公式ウェブサイト
2008/8/8エントリ 中原街道のカギ道(前編) 小杉御殿と西明寺
2009/9/23エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(1):「丸子の渡し」

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