宮内自治会のWeb連携史跡案内「宮内歴史ガイド」探訪(2):「八目土・枠鼻」で知る多摩川治水の歴史
【Reporter:はつしも】
宮内地区の歴史を伝える「宮内歴史ガイド」について、2021/2/11エントリでご紹介しました。
これは地域自治会による「宮内歴史ガイド委員会」が各所の史跡に案内板を設置するとともに、専用のウェブサイトにおいてより詳細な情報を掲載するものでした。
前回エントリにおいては、現在のバス停名も残る「黄金塚」をご紹介しましたが、今回はバス停繋がりで「八目土(なつめど)・枠鼻(わくばな)」の案内板を訪問してみました。
■「下枠鼻」のバス停
前回「黄金塚」に注目したのは、バス停にその名前があったからでした。
そして「黄金塚」バス停には「次は下枠鼻」と表記されていましたので、そちらの由来も気になっていたところでした。
■「八目土・枠鼻」の案内板
案内板は、府中街道が宮内新横浜戦と交差する「西下橋」交差点近くにありました。
案内板には、「八目土(やつめど)」と「枠鼻(わくばな)」の由来の説明がそれぞれ簡単に記載されています。
前回ご紹介したように、案内板のQRコードから「宮内歴史ガイド」のサイトにアクセスして、より詳細な説明や、資料の画像などを見ることができます。
「八目土」は、「八つ目の土手」という意味です。
この一帯は以前は多摩川の土手でしたが、川が大きく蛇行する場所にあたり、堤防が決壊しやすかったということです。
「八」は数字だけでなく「多く」「たくさん」という意味もあり、「八目土」は「堤防が決壊するたびに、何度も何度も(たくさん)土手を築き直したところ」というのが由来でした。
■川崎歴史ガイド「八目土」のガイドパネル
なお、この「八目土」については、本サイトでこれまでにご紹介してきた川崎市観光協会の「川崎歴史ガイド」の「二ヶ領用水ルート」でも「八ッ目土」として取り上げられていました。
こちらはこの地域にあった「宮内貯水場」とあわせて紹介されています。
■地域に残る「八目土」の名前
川崎歴史ガイドのガイドパネル付近には「テラス やつめと」という建物がありました。
現在、住所としては「八目土」は存在していませんが、地域にはまだ確かに名前が残されているようです。
そして一方の「枠鼻」ですが、「枠」は、川の流れを安定させ、堤防にぶつかる勢いを和らげるための工作物でした。
木枠の中に大きな石を詰めて、川の流れの激しい処に沈めるもので、現在のテトラポットに近いですね。
「鼻」は「先頭」「端」などの意味があります。
前述の通りこの周辺は多摩川が蛇行し、川の外側に水が激しく当たる場所で、いくつもの「枠」が設置されていました。
その枠の先端の部分が「枠鼻」と呼ばれ、周辺の耕地が「枠鼻」(下枠鼻・上枠鼻)という名前になったのだそうです。
このように、「宮内歴史ガイド」では説明されており、この地域が多摩川の水害と戦ってきた歴史を知ることができました。
「宮内歴史ガイド」の案内板が設置されていた「西下橋」交差点は、将来的には多摩川を渡る新橋「等々力大橋」につながり、目黒通りに接続される計画です。
まだまだ時間がかかりそうですが、それでもかつて水害に苦しんでいたかつての人々からすると、想像もできないような発展ではないでしょうか。
■「宮内歴史ガイド」のページ
■「八目土」の案内板マップ
【関連リンク】
・宮内歴史ガイド ウェブサイト
・川崎歴史ガイド・中原街道ルート関連エントリ
・2021/2/11エントリ 宮内自治会がWeb連携案内板「宮内歴史ガイド」で地域の歴史を紹介、黄金の太刀の伝説残る「黄金塚」を探訪
宮内地区の歴史を伝える「宮内歴史ガイド」について、2021/2/11エントリでご紹介しました。
これは地域自治会による「宮内歴史ガイド委員会」が各所の史跡に案内板を設置するとともに、専用のウェブサイトにおいてより詳細な情報を掲載するものでした。
前回エントリにおいては、現在のバス停名も残る「黄金塚」をご紹介しましたが、今回はバス停繋がりで「八目土(なつめど)・枠鼻(わくばな)」の案内板を訪問してみました。
■「下枠鼻」のバス停
前回「黄金塚」に注目したのは、バス停にその名前があったからでした。
そして「黄金塚」バス停には「次は下枠鼻」と表記されていましたので、そちらの由来も気になっていたところでした。
■「八目土・枠鼻」の案内板
案内板は、府中街道が宮内新横浜戦と交差する「西下橋」交差点近くにありました。
案内板には、「八目土(やつめど)」と「枠鼻(わくばな)」の由来の説明がそれぞれ簡単に記載されています。
前回ご紹介したように、案内板のQRコードから「宮内歴史ガイド」のサイトにアクセスして、より詳細な説明や、資料の画像などを見ることができます。
「八目土」は、「八つ目の土手」という意味です。
この一帯は以前は多摩川の土手でしたが、川が大きく蛇行する場所にあたり、堤防が決壊しやすかったということです。
「八」は数字だけでなく「多く」「たくさん」という意味もあり、「八目土」は「堤防が決壊するたびに、何度も何度も(たくさん)土手を築き直したところ」というのが由来でした。
■川崎歴史ガイド「八目土」のガイドパネル
なお、この「八目土」については、本サイトでこれまでにご紹介してきた川崎市観光協会の「川崎歴史ガイド」の「二ヶ領用水ルート」でも「八ッ目土」として取り上げられていました。
こちらはこの地域にあった「宮内貯水場」とあわせて紹介されています。
■地域に残る「八目土」の名前
川崎歴史ガイドのガイドパネル付近には「テラス やつめと」という建物がありました。
現在、住所としては「八目土」は存在していませんが、地域にはまだ確かに名前が残されているようです。
そして一方の「枠鼻」ですが、「枠」は、川の流れを安定させ、堤防にぶつかる勢いを和らげるための工作物でした。
木枠の中に大きな石を詰めて、川の流れの激しい処に沈めるもので、現在のテトラポットに近いですね。
「鼻」は「先頭」「端」などの意味があります。
前述の通りこの周辺は多摩川が蛇行し、川の外側に水が激しく当たる場所で、いくつもの「枠」が設置されていました。
その枠の先端の部分が「枠鼻」と呼ばれ、周辺の耕地が「枠鼻」(下枠鼻・上枠鼻)という名前になったのだそうです。
このように、「宮内歴史ガイド」では説明されており、この地域が多摩川の水害と戦ってきた歴史を知ることができました。
「宮内歴史ガイド」の案内板が設置されていた「西下橋」交差点は、将来的には多摩川を渡る新橋「等々力大橋」につながり、目黒通りに接続される計画です。
まだまだ時間がかかりそうですが、それでもかつて水害に苦しんでいたかつての人々からすると、想像もできないような発展ではないでしょうか。
■「宮内歴史ガイド」のページ
■「八目土」の案内板マップ
【関連リンク】
・宮内歴史ガイド ウェブサイト
・川崎歴史ガイド・中原街道ルート関連エントリ
・2021/2/11エントリ 宮内自治会がWeb連携案内板「宮内歴史ガイド」で地域の歴史を紹介、黄金の太刀の伝説残る「黄金塚」を探訪