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2009年
11月09日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(3):「旧名主家と長屋門」

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川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第3回は、「旧名主家と長屋
門」
です。
第2回の旧原家母屋跡地からわずか30秒足らず武蔵中原方面に
歩いたところに、川崎歴史ガイドのガイドパネルが立っています。
ここが、旧名主家・安藤家の長屋門です。

■「旧名主家と長屋門」のガイドパネル
「旧名主家と長屋門」のガイドパネル

前回の原家も名主をつとめた旧家でしたが、安藤家もかつては
北条氏(小田原北条氏)に仕えたといわれる旧家
でした。
北条氏が1590年に豊臣秀吉に敗れ没落するとともに土着・帰農し、
江戸時代には近隣一体の割元名主をつとめていたそうです。

割元名主とは、近隣一体の名主たちと代官との間で法令の伝達や
年貢の取りまとめにあたる役割を担っていた名主の代表格で、
安藤家が代官から賜ったとされる立派な長屋門が現在もここに
残っています。

■安藤家の長屋門とアプローチ
安藤家の長屋門

この長屋門は、江戸時代の中期に江戸の代官屋敷から移築された
ものと伝えられています。長屋門を正面から見てみると、アプローチ
が非常に長く、風格を感じますね。

■長屋門(拡大)
長屋門(拡大)

写真ではわかりませんが、この長屋門の内側には慶応4年(明治
元年・1868年)に発令された高札
が飾られています。高札とは、
古代から明治時代初期にかけて法令を民衆に周知するために、
木製の札を人目につきやすい街中に立てたもので、この付近では
西明寺の参道入口付近に設置
されていたようです。
それが現在では長屋門の内側に保存されており、現在でも当時の
法令を読むことができます。

■長屋門そばに保存された高札の文面
 定
一、人たるもの五倫の道を正しくすべき事
一、鰥寡(かんか)孤独廃疾のものを憫むべき事
一、人を殺し、家を焼き、財を盗む等の悪行あるまじき事
慶応四年三月 太政官


一つ目の「五倫の道」とは儒教の教えですね。儒教では、五常(仁・
義・礼・智・信)という徳性を育てることにより五倫(父子・君臣・夫婦・
長幼・朋友)関係を強める
ことを教えています。
「五倫の道を正しくすべきこと」とは、徳を育てて人の様々な絆を大切
にせよ、という人の道の基本を説いたものでしょう。

二つ目の「鰥寡孤独」とは、親兄弟など身寄りのない人のことで、
「廃疾」とは身体障碍のことです。身寄りの無い人や障碍のある人を
大切にせよ、ということですね。

三つ目は、そのまま読んだとおりで、殺人・放火・窃盗などの悪行
戒めています。江戸時代では放火は現在よりもはるかに重罪でした
ので、明治初期のこの高札においても、数ある悪行の中でも特筆
されているものと思います。

なお、この高札の立てられた時期に関して、「川崎歴史ガイド」の冊子
では「明治4年に発令」という記述がありますが、これは慶応4年(明治
元年・1868年)の誤り
です。
この高札の文面を読むと、明治維新後の新政府が発した「五榜の
掲示」という5つの高札のうちのひとつ
であることがわかります。
これは「五ヶ条の御誓文」が出された慶応4年(明治元年・1868)3月
14日の翌日、明治新政府が旧幕府の高札を撤去し、その代わりに
立てられた
ものであり、その発令時期が確認できます。

「五傍の掲示」のうち、この高札を含む3つは「定三札」といわれ、期限
を定めず掲示し続けるものとされましたが、印刷物などの情報伝達
手段の発達により、やがて存在意義が薄れるようになってきます。
その結果、この「五榜の掲示」を最後に、高札による法令の伝達は
明治6年(1873年)2月24日をもって廃止
されました。
つまり、今回の長屋門の高札は、「最後の高札」といえるわけですね。

また高札以外にも、安藤家には古文書や絵画などの文化財が残され
ていて、現在では貴重な史料となっています。
川崎歴史ガイド・中原街道ルートで歴史をたどるにあたっては、それ
らの史料が大きな役割を果たしているものです。

■「旧名主家と長屋門」マップ
「旧名主家と長屋門」マップ

【関連リンク】
2009/9/23エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(2):「旧原家母屋跡地」

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