武蔵小杉ブログ(武蔵小杉ライフ 公式ブログ)

川崎市中原区の再開発で変貌する街・武蔵小杉のタウン情報サイト『武蔵小杉ライフ』の公式ニュースブログ。街の最新情報やさまざまな話題をご紹介します。

2022年
09月29日

中原区・なかはら散策ガイドの会が平塚市コラボの中原街道まち歩きを開催、小杉御殿・中原御殿の歴史を辿る

川崎市中原区の区名のもととなった「中原街道」は、平塚市の「中原御殿」と中原区の「小杉御殿」という2つの徳川将軍家の別荘をつないでいます。

そのご縁から中原区と平塚市の交流・連携事業がスタートし、「市政だより」での特集や史料を両市の図書館で展示する「図書館交流」について、本サイトでもご紹介してまいりました。

この中原区×平塚市のコラボ企画の一環として、歴史とまち歩きを通して中原区の魅力を発券する「なかはらの魅力発信講座」において、『中原街道を歩く』企画が9月26日に開催されました。

この日は中原区役所とともにまち歩きを主催した「なかはら散策ガイドの会」に加えて、平塚市区教育委員会の方もゲストとして参加し、中原街道の歴史につて講話を提供しました。

■旧原家住宅表門
旧原家住宅表門
※写真提供:中原区役所、以下同じ

最初にこちらは、「旧原家住宅表門」です。

名主であった原家九代目の文次郎氏が1889年から24年の歳月をかけて、この地に母屋を1913年に完成させました。

総ケヤキ造りの母屋は、当時の高度な木造建築技術を駆使した建築物であり、国登録有形文化財に指定されています。

母屋は1991年に日本民家園に移築されましたが、表門は中原街道沿いに現存し、お屋敷の敷地のマンション開発においても保存されました。

■「なかはら散策ガイドの会」の皆さん
なかはら散策ガイドの会の皆さん

まち歩きをガイドするのは、「なかはら散策ガイドの会」の皆さんです。

2008年に開催された「区内観光ガイド育成講座」の修了者らが加わって2009年に発足し、中原区内でまち歩きをしながら各種スポットや歴史の紹介をしています。

今回は中原区役所とともに「なかはらの魅力発信講座」を開催しました。

■安藤家長屋門
安藤家長屋門

続いて「旧原家住宅表門」のすぐ近くに、川崎市重要歴史記念物に指定されている「安藤家長屋門」があります。

安藤家もかつては後北条氏(小田原北条氏)に仕えたといわれる旧家でした。
北条氏が1590年に豊臣秀吉に敗れ没落するとともに土着・帰農し、江戸時代には近隣一体の割元名主をつとめています。

割元名主とは、近隣一体の名主たちと代官との間で法令の伝達や年貢の取りまとめにあたる役割を担っていた名主の代表格で、安藤家が代官から賜ったとされる立派な長屋門がここに現存しています。

長屋門は木造平屋で、門の両側に部屋が設けられているのに加えて、中央の屋根の部分が中2階になっています。「寄棟(よせむね)造」に「桟瓦葺(さんがわらぶき)」で建てられ、建築時期は幕末頃とされています。

■石橋醤油店
石橋醤油店

石橋醤油店

続いてこちらは「石橋醬油店」です。
明治3年に農業のかたわらで醤油や味噌の醸造を始め、「キッコー文山」の屋号で販売したとされています。

現在は醤油蔵は取り壊されていますが、本サイトでもご紹介した「川崎歴史ガイド」のパネルや記念碑などが設置されていました。

■小杉陣屋跡
小杉陣屋跡

小杉陣屋跡

小杉御殿の建設などが行われた徳川家康の治世当初において、多摩川周辺の土地は非常に生産性の低い状態でした。水利が悪く、草地や荒地ばかりの中に小さい集落が点在しているのみだったようです。

米の増産に取り組んでいた家康は江戸近郊の各地で新田開発を計画しますが、それにあたって多摩川からの農業用用水路の敷設を進言し、用水奉行を任されたのが小泉次大夫でした。
次大夫によって川崎市内に敷設されたのが二ヶ領用水であり、その拠点となったのが小杉陣屋です。

小泉次大夫は、1597年(慶長2年)より、多摩川両岸の用水路建設に着手しましたが、完成までに14年を要する難工事でした。
陣屋は川崎側の小杉陣屋だけでなく、江戸側の狛江にも設けられ、次大夫が各地の現場で指揮を取って完成にこぎつけました。

■小杉御殿の御主殿跡
小杉御殿の御主殿跡

続いて、小杉御殿の御主殿跡です。

小杉御殿の敷地は約40,000㎡、図面で残されているところによると、その中には表御門、御主殿、御殿番屋敷、御賄屋敷、御蔵、御馬屋敷、裏御門などが配置されていたことが確認できます。

そのうちの御主殿跡が、住宅街の細い路地の奥に残されていました。
現在は小さな稲荷があります。

■西明寺の参道
西明寺の参道前

西明寺の参道

こちらは、西明寺の参道です。

ちょうど中原街道が「カギ道」になるところで、現在はカギ道を解消するための道路整備が参道脇で徐々に進んできています。

■最後は等々力陸上競技場で平塚市教育委員会の方から講話
最後は等々力陸上競技場で平塚市教育委員会のゲストから講話

そして最後は、等々力陸上競技場メインスタンドです。

平塚市教育委員会の方がゲストで登場し、中原街道と中原御殿の歴史について講話をしてくださいました。

天正から文禄、慶長年間において府中御殿、青戸御殿、鴻巣御殿など各地に次々と御殿が建てられ、中原御殿が建設されたのが慶長元年(1596年)。
同年には藤沢御殿も建てられています。

小杉御殿が建てられたのが関ケ原の戦いから8年後の慶長13年(1608年)ということですから、中原御殿が先でした。

その後も土気御殿、船橋御殿、東金御殿が1613年までに建てられるなど、江戸周辺地位に御殿がたくさんあったということです。

「小杉御殿」については地域でさまざまな情報発信がありますが、平塚市の中原御殿やその他の御殿についてはあまり聞いたことがありませんでしたので、貴重な機会だったのではないでしょうか。

本サイトでは不定期連載「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」において中原街道の歴史について継続的にご紹介をしています。

詳細は関連リンクからご参照ください。

【関連リンク】
川崎市報道発表資料 中原区と平塚市のコラボ企画、続々登場!~地元の魅力を連携発信し、地域活性化につなげます~
中原区 なかはらの魅力発信講座(前期)

(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と石橋ベンチ
2011/7/9エントリ (13):「二ヶ領用水と神地橋」
2011/9/4エントリ (14):「泉沢寺と門前市」
2012/12/1エントリ 「安藤家長屋門」が川崎市指定文化財に、本日12月1日(日)に一般開放
2013/2/9エントリ 「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物記念イベント」が2013年3月14日(木)、30日(土)開催
2013/2/12エントリ 川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート
2013/8/16エントリ (15):「旧中原村役場跡」
2014/2/10エントリ (16):「木月堀と『くらやみ』」
2015/12/20エントリ (番外編):旧原家母屋跡地「GATE SQUARE小杉御殿町」の歴史展示
2016/3/16エントリ (番外編):神明神社と上小田中公園に残る、「くらやみ」の歴史
2016/4/8エントリ (番外編):旧中原街道「桜坂」から見えるソメイヨシノと、武蔵小杉の高層ビル群
2016/8/16エントリ (番外編):大田区側「おいと坂」と、「美富士橋」から見る武蔵小杉の高層ビル群
2021/4/27エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):子母口富士見台古墳から見た武蔵小杉の高層ビル群と、富士見台からの富士山
2022/8/30エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):平塚市の中原御殿跡訪問、「中原小学校」「御殿一丁目」などまるで異世界の中原区を散策 2022/9/9エントリ 中原区×平塚市コラボ・中原図書館で中原街道史料展示開始、小杉御殿・川崎フロンターレvs中原御殿・湘南ベルマーレ「中原街道御殿ダービー」も熱戦

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2021年
04月27日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):子母口富士見台古墳から見た武蔵小杉の高層ビル群と、富士見台からの富士山

【Reporter:はつしも】

中原区から中原街道を南下すると、高津区に入ってから千年交差点先に高台があります。

本サイトではこれまで、2019年にその高台から見える武蔵小杉のタワーマンション群を、2020年には高台にある“高津区の武蔵小杉”マンション、「メイツ武蔵小杉富士見台」をご紹介しておりました。

その際、「富士見台」という名前の由来である富士山も見えることを情報提供いただいておりましたので、今回実際に見に行ってみました。

■千年交差点先で拡幅工事が行われた中原街道
千年交差点先で拡幅工事が行われた中原街道

中原街道をまっすぐ南下していくと、武蔵中原駅からしばらくして高津区に入ります。
高津区に入ると千年交差点があり、そこから中原街道は高台を超える坂道になっています。

この区間はかねてから拡幅工事が行われていましたが、歩道の一部舗装等を除いて道路が完成していました。

道路の両側には、自転車が走行するためのナビマークも設置されています。

■富士見台への上り坂
富士見台への上り坂

中原街道は、富士見台の最高部は通らず、その脇を抜けて野川への下り坂に転じていきます。

富士見台に上るには、中原街道から分かれる上記写真左側の坂道に入っていく必要があります。

■高台上の「メイツ武蔵小杉富士見台」
高台上の「メイツ武蔵小杉富士見台」

メイツ武蔵小杉富士見台

坂道をのぼると、マンション「メイツ武蔵小杉富士見台」があります。
このマンションは、高津区千年にある「高津区の武蔵小杉」として2020/8/27エントリでご紹介しておりました。

■子母口富士見台町内会案内図
子母口富士見台町内会案内図

富士見台の上は、「子母口富士見台町内会」の住宅街になっています。
坂道をのぼってしまえば、広くはありませんが比較的平らな住宅がありました。

■富士見台から見えた富士山
富士見台から見えた富士山

さて、こちらが富士見台から見えた富士山です。
手前に送電線がありますが、まだ冠雪した富士山がきれいに見えました。

これから暖かくなるほどに見えない日も増えると思いますので、あらかじめご承知ください。

■子母口富士見台古墳
子母口富士見台古墳

子母口富士見台古墳

そして富士見台の高台には「子母口富士見台古墳」がありました。

この古墳は中原街道に面した麓部が大きく削られているものの、築造当時はかなり大きな円墳であったと考えられています。

この周辺は、野川の古刹「影向寺(ようごうじ)」周辺とともに、古代武蔵国橘樹郡の郡衙(役所)があった場所として有力視されており、多くの史跡が残されています。

子母口村の鎮守「橘樹神社」の社伝によると、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東征の際、荒れた海を鎮めるために海を身を投じた弟橘媛(オトタチバナヒメ)の御衣・冠がこの地に漂着したと伝えられています。

また古事記でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」との記述があります。

橘樹神社の社伝と古事記の記述を結び付け、その「御陵」とされてきたのが富士見台の高台に築かれた富士見台古墳というわけです。

あくまでも伝説の「ひとつの解釈」であって、歴史的事実とは別に考える必要があるでしょうが、イメージを膨らませて古墳を眺めてみるのもよいでしょう。

■小高い墳丘
小高い古墳

小高い古墳

■古墳の上から見えた武蔵小杉の高層ビル群
墳丘から見えた武蔵小杉の高層ビル群  

「子母口富士見台古墳」の墳丘は変形がみられますが、どなたでも最上部まで登ることができます。

小高い丘の上からは、遠く武蔵小杉の高層ビル群を望むことができました。
はるか昔に築造された古墳から、時を超えて21世紀の高層建築を眺めると、感慨もまた新たなものがあります。

■富士見台の畑越しに見えた武蔵小杉の高層ビル群
富士見台の畑越しに見えた武蔵小杉の高層ビル群

子母口富士見台古墳の上からは住宅に隠れた部分もありましたが、近くの畑越しからは、武蔵小杉の高層ビル群をほぼ完全な形で見渡すことができました。

こうした高台は眺めがよく、アップダウンさえ問題なければ魅力的かと思います。

武蔵小杉の高層ビル群は、富士見台まで上らなくても中原街道からも見えますので、街道を御通行の際、それだけでも確認してみてください。

■中原街道から見た武蔵小杉の高層ビル群
振り返ると、武蔵小杉ビュースポット

■子母口富士見台古墳のマップ


【関連リンク】
(野川・子母口地区関連)
2019/3/22エントリ 中原街道の尻手黒川道路交差点近くに「ケーズデンキ川崎野川店」がオープン、3月24日(日)までオープニングイベント実施中
2019/11/9エントリ 中原街道・千年交差点先の高台から見える、武蔵小杉の高層ビル群
2020/8/27エントリ 高津区に点在、北限・西限の武蔵小杉。下野毛「ハイラーク武蔵小杉」、千年「メイツ武蔵小杉」、子母口「ユナイト武蔵小杉」

(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と石橋ベンチ
2011/7/9エントリ (13):「二ヶ領用水と神地橋」
2011/9/4エントリ (14):「泉沢寺と門前市」
2012/12/1エントリ 「安藤家長屋門」が川崎市指定文化財に、本日12月1日(日)に一般開放
2013/2/9エントリ 「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物記念イベント」が2013年3月14日(木)、30日(土)開催
2013/2/12エントリ 川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート
2013/8/16エントリ (15):「旧中原村役場跡」
2014/2/10エントリ (16):「木月堀と『くらやみ』」
2015/12/20エントリ (番外編):旧原家母屋跡地「GATE SQUARE小杉御殿町」の歴史展示
2016/3/16エントリ (番外編):神明神社と上小田中公園に残る、「くらやみ」の歴史
2016/4/8エントリ (番外編):旧中原街道「桜坂」から見えるソメイヨシノと、武蔵小杉の高層ビル群
2016/8/16エントリ (番外編):大田区側「おいと坂」と、「美富士橋」から見る武蔵小杉の高層ビル群

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2016年
08月06日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):大田区側「おいと坂」と、「美富士橋」から見る武蔵小杉の高層ビル群

【Reporter:はつしも】

中原街道の大田区側の旧街道にあたる「桜坂」を、2016/4/8エントリでご紹介いたしました。
今回は、「桜坂」下から分岐する「おいと坂」をのぼって、武蔵小杉の風景を楽しんでみたいと思います。

■「桜坂」と「おいと坂」のマップ
「桜坂」と「おいと坂」のマップ

古い街道には、よく「旧街道」と「新道」が並行しているところが残されています。
それらの多くは、モータリゼーション等近代化の過程でより広い幅員が必要となり、旧街道に隣接して新道が整備された名残です。

中原街道にもこのような「旧街道」「新道」がありまして、多摩川付近の旧中原街道は新道よりも東寄りでした。
「丸子の渡し」で多摩川を渡ると現在の「東急沼部駅」あたりに到着し、そこから旧中原街道の「桜坂」を登っていくのがメジャーな交通路だったわけです。

■東急沼部駅
東急沼部駅

多摩川線の東急沼部駅には、この一帯の地名であった「沼部」の名前が残されています。

川崎市側の「下沼部」はかつては大田区側の沼部(当時の荏原郡調布村)と一体でしたが、多摩川の度重なる氾濫、流路変更によって飛び地となりました。
1912年(明治45年)に東京と神奈川の境界が多摩川で仕切りなおされ、下沼部は神奈川に編入されることとなったのです。

■大田区側の「沼部」(左)と、川崎市側の「下沼部」
大田区側の「沼部」(左)と、川崎市側の「下沼部」

なお、大田区側の地名は現在では「田園調布本町」「田園調布南」といった地名になっています。
「沼」がつく地名を嫌う考え方がある一方で「田園調布」は全国的に知名度のあるブランドですので、イメージアップという側面もあったのかもしれません。

■「桜坂」(左)と「おいと坂」(右)の分岐点
「桜坂」と「おいと坂」の分岐点

■「おいと坂」
「おいと坂」

今回ご紹介する「おいと坂」は、「桜坂」下の東急沼部駅近くから東に向かって分岐しています。
左手が「桜坂」、右手が「おいと坂」です。

■「おいと坂」のいわれ
「おいと坂」のいわれ

「おいと坂」下にある木碑には、坂の謂れが「大田区史」からの引用で書かれています。

かつて坂下には「雄井戸(おいと)」と呼ばれる井戸があり、旧中原街道を隔てて西側にあった「雌井戸(めいと)」とともに人々に親しまれてきました。井戸の一つは、中原から移したものとされています。
伝説では鎌倉時代の武将・北条時頼がこの地を訪れた際、雄井、雌井の水により病をいやしたといわれています。

現在では井戸の姿は残されていませんが、「おいと坂」とは、「雄井戸」があったことからついた名前であろうということです。

■北条時頼の伝説が残る「西明寺」
北条時頼の伝説が残る「西明寺」

北条時頼は、中原街道のカギ道そばの「西明寺」の信仰厚く、中興の祖とされています。
西明寺には北条時頼の像が残され、いくつか伝説も残されています。

井戸の移設や北条時頼の伝説など、大田区側の「旧中原街道」「沼部」と中原区側の歴史的な縁を感じることができますね。

■おいと坂上にある「美富士橋」
おいと坂上にある「美富士橋」

■「美富士橋」から見える武蔵小杉の高層ビル群
「美富士橋」から見える武蔵小杉の高層ビル群

さて、「おいと坂」を登りきると、新幹線・横須賀線の線路をまたぐ「美富士橋」につきあたります。

この橋は、線路の上に建築物が立つことはありませんので、高台の上にあることもあって非常によく視界がひらけています。
武蔵小杉の高層ビル群のほか、名前のとおり富士山なども見ることができるそうです。

■「美富士橋」から見る新幹線、湘南新宿ライン、横須賀線など
「美富士橋」から見る新幹線、湘南新宿ライン、横須賀線など

「美富士橋」から見る新幹線、湘南新宿ライン、横須賀線など

「美富士橋」から見る新幹線、湘南新宿ライン、横須賀線など

「美富士橋」から見る新幹線、湘南新宿ライン、横須賀線など

線路の上からは、新幹線、湘南新宿ライン、横須賀線などさまざまな電車を見ることができます。
武蔵小杉周辺からとはまた違った構図で、新鮮でした。

■「美富士橋」「おいと坂」周辺から見る武蔵小杉・向河原方面
「美富士橋」「おいと坂」周辺から見る武蔵小杉・向河原方面

「美富士橋」「おいと坂」周辺から見る武蔵小杉・向河原方面

「美富士橋」「おいと坂」の周辺では、各地で武蔵小杉・向河原方面を見ることができます。

飛び地になった「下沼部」を、東京側からはかつては「向河原」(川向うの河原)と呼んでいたそうです。
そのため、現在も南武線の駅名に「向河原」が残っています。

■沼部駅近くの多摩川河川敷から見た武蔵小杉・向河原方面
沼部駅近くの多摩川河川敷から見た武蔵小杉・向河原方面

かつては飛び地で同じ村であった、沼部駅近くの多摩川河川敷から、武蔵小杉・向河原方面を眺めてみました。
現在の向河原にはNEC玉川ルネッサンスシティの高層ビルが建ち、武蔵小杉駅周辺にはタワーマンションが並んでいます。

当時は「川向う」という以上の認識はあまりなかったのだと思いますが、これほどまでに変貌することは想像がつかなかったのではないでしょうか。

旧中原街道がつないでいた、多摩川の両岸を行き来しながら、あらためて時代の移り変わりを感じました。

■ソメイヨシノが咲く頃の「桜坂」
ソメイヨシノが咲く頃の「桜坂」

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載) ・大田区ウェブサイト おいと坂
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と石橋ベンチ
2011/7/9エントリ (13):「二ヶ領用水と神地橋」
2011/9/4エントリ (14):「泉沢寺と門前市」
2012/12/1エントリ 「安藤家長屋門」が川崎市指定文化財に、本日12月1日(日)に一般開放
2013/2/9エントリ 「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物記念イベント」が2013年3月14日(木)、30日(土)開催
2013/2/12エントリ 川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート
2013/8/16エントリ (15):「旧中原村役場跡」
2014/2/10エントリ (16):「木月堀と『くらやみ』」
2015/12/20エントリ (番外編):旧原家母屋跡地「GATE SQUARE小杉御殿町」の歴史展示
2016/3/16エントリ (番外編):神明神社と上小田中公園に残る、「くらやみ」の歴史
2016/4/8エントリ (番外編):旧中原街道「桜坂」から見えるソメイヨシノと、武蔵小杉の高層ビル群

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2016年
04月08日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):旧中原街道「桜坂」から見えるソメイヨシノと、武蔵小杉の高層ビル群

【Reporter:たちばな・はつしも】

古い街道には、よく「旧街道」と「新道」が並行しているところがあります。 それらの多くは江戸時代にはそれほどの幅員が必要でなかったものが、モータリゼーション等近代化の過程で、旧街道に隣接して広い道路が整備された名残です。

■旧中原街道・桜坂と「丸子の渡し」マップ
旧中原街道・桜坂と「丸子の渡し」マップ

これまでにお伝えしてきた中原街道も、「旧街道」と「新道」があります。

中原区内の中原街道は現在のように綱島街道との合流地点で曲がらず、まっすぐ多摩川に向かっていました。かつての「丸子の渡し」は、現在よりも多摩川河口側にあったわけです。

「丸子の渡し」を渡ると現在の東急沼部駅前に至り、そこから旧中原街道が五反田方面に延びています。

今回は大田区側の旧中原街道にあたる「桜坂」を、ソメイヨシノの見ごろにあたってご紹介してみたいと思います。

■大田区側の旧中原街道「桜坂」
大田区側の旧中原街道「桜坂」

■「桜坂」の木碑
「桜坂」の木碑

大田区側の中原街道は、現在の中原街道よりも東側にありました。
現在は東急沼部駅からの急勾配の上り坂になっていまして、沿道のソメイヨシノが見事であることから「桜坂」と呼ばれています。

「桜坂」は、福山雅治さんの同名の楽曲「桜坂」の大ヒットにより、一躍全国的に有名になりました。
しかしながらここが「旧中原街道」であったことは、武蔵小杉周辺でもそれほど知られてはいないように思います。

■「桜坂」のさくら橋
「桜坂」のさくら橋
 
さくら橋から見たソメイヨシノ

「桜坂」は、大田区の大地を掘削した切り通しになっていまして、切り通しを跨いで「さくら橋」が架けられています。
このような地形であるため、交通量の増大に対応した拡幅が難しく、新道として現在の中原街道が別途整備されたものと思います。

中原街道としてのにぎわいは新道に譲りましたが、お花見シーズンには周辺地域から多くの方が「桜坂」を訪れます。

■「さくら橋」から見たソメイヨシノと、武蔵小杉の高層ビル群
「さくら橋」から見たソメイヨシノと、武蔵小杉の高層ビル群

ここは小杉方面に向かう旧中原街道ですから、街道のちょうど正面に武蔵小杉の高層ビル群が位置しています。
「さくら橋」の上から、ソメイヨシノと一緒に武蔵小杉のビル群が見えました。

■冬場の「さくら橋」から見た武蔵小杉の高層ビル群色
冬場の「さくら橋」から見た武蔵小杉の高層ビル群

ソメイヨシノが満開になると、武蔵小杉が花弁に隠れてしまいますね。
冬場の見通しの良いころに撮影した写真もありますので、あわせてご紹介しておきます。

■「さくら橋」の下から見た武蔵小杉の高層ビル群 「さくら橋」の下から見た武蔵小杉の高層ビル群

「さくら橋」の下からは、もう少し武蔵小杉がよく見えました。
ここが中原街道として現役であったころは、このような風景になることは想像できなかったでしょう。

■沼部駅前の「丸子の渡し」方面
沼部駅前の「丸子の渡し」方面

桜坂をおりると、東急沼部駅前にぶつかります。
この先は多摩川で、「丸子の渡し」が行き来していた場所です。

■中原区側の「丸子の渡し」の碑
中原区側の「丸子の渡し」の碑

中原区側の「丸子の渡し」の碑

エントリ冒頭のマップでお示しした通り、「丸子の渡し」は現在の丸子橋よりも東側にありました。
大田区側では沼部駅前付近が渡し場で、中原区側においても丸子橋よりも少し東側に「丸子の渡し」の碑がありました。

毎年「丸子の渡し」復活のイベントが開催されていますけれども、それとあわせて旧街道「桜坂」をのぼっていく散策コースも、往時をしのぶことができてよいかもしれません。

【関連リンク】
find travel 福山雅治の名曲のモデルとなったスポット!東京都大田区にある「桜坂」とは

(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と石橋ベンチ
2011/7/9エントリ (13):「二ヶ領用水と神地橋」
2011/9/4エントリ (14):「泉沢寺と門前市」
2012/12/1エントリ 「安藤家長屋門」が川崎市指定文化財に、本日12月1日(日)に一般開放
2013/2/9エントリ 「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物記念イベント」が2013年3月14日(木)、30日(土)開催
2013/2/12エントリ 川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート
2013/8/16エントリ (15):「旧中原村役場跡」
2014/2/10エントリ (16):「木月堀と『くらやみ』」
2015/12/20エントリ (番外編):旧原家母屋跡地「GATE SQUARE小杉御殿町」の歴史展示
2016/3/16エントリ (番外編):神明神社と上小田中公園に残る、「くらやみ」の歴史

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2016年
03月14日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):神明神社と上小田中公園に残る、「くらやみ」の歴史

本サイトでは、2009年9月から6年半に及ぶ長期連載「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」をシリーズでお届けしています。

財団法人川崎市文化財団の事業に、市内の歴史文化遺産の保存と紹介を目的とした「川崎歴史ガイド」があります。これは市内の歴史をたどる9つのルートを設定し、現地にガイドパネルを設置するほか、パンフレットを作成して当該地域の歴史を紹介するものです。

中原区においては、「中原街道」と「二ヶ領用水」がルートに設定されており、本連載では「中原街道ルート」の紹介を行っています。

この第16回では、「木月堀と『くらやみ』」をご紹介しました(2014/2/10エントリ参照)。
『くらやみ』とは、中原街道の旧名主家・原家のお屋敷の木々が立派で大きな影をつくっていることから、古くから同家のお屋敷がそのように呼ばれていたものです。

今回はこれに関連して、「神明神社」の歴史をご紹介したいと思います。

■神明神社
神明神社

神明神社は、「くらやみ」のお屋敷からさらに北側に入っていった場所にあります。この神社は、原家とゆかりのある神社です。

■原家寄贈の石碑
原家寄贈の石碑

神明神社の境内には、原家が寄贈した石碑が鎮座しています。ここに、神明神社と原家のかかわりについて説明がありました。

この石碑によると、神明神社の紀元2,600年記念にあたる1940年、氏子からの要望を受けて原家が所有する土地を明神社に寄贈されたそうです。
その時の敷地は、北側にある「上小田中公園」の敷地も含めたたいへん広いものでした。

その後1955年頃、境内に「神明会館」を建設するための費用を捻出するため、神明神社は北側の土地を川崎市に売却します。これが現在の「上小田中公園」になっているということです。

■神明会館
神明会館

こちらが現在も境内にある「神明会館」です。築年数は経っていますが、中原区の神社の中でも、立派な会館ではないでしょうか。
神明会館は、地域の催しなどにも活用されているようです。

■上小田中公園
上小田中公園

続いてこちらが神社北側にある「上小田中公園」です。
見通しが良く遊具が複数整備された、街区公園の中でも広めの公園です。

ここまでがかつては神明神社だったのですから、かなり広い神社だったことがわかります。
またその土地を寄贈した、旧名主家の力がうかがわれますね。

■石碑に刻まれた「くらやみ」の文字
石碑に刻まれた「くらやみ」の文字

寄贈された石碑には署名として「原 本家(くらやみ)」と刻まれていました。
「木月堀と『くらやみ』」において、原家のお屋敷が「くらやみ」と呼ばれていたことをご紹介しましたが、実際に地域に定着した呼び名であったことがわかります。

■神明神社の「八百八橋」
神明神社の「八百八橋」

なお、この神明神社には「八百八橋」があります。
明確に案内等は何もないのですが、神社の塀の外側に並んでいるのが、「八百八橋」の石橋でしょう。

「八百八橋」とは、1772年から1781年にかけて上丸子で「ほしか屋」という肥料店を営んでいた野村文左衛門が私財を投じて中原街道沿いの各地に架けた石橋のことです。
野村文左衛門は「人々のために1,000の橋を架ける」という志によりこの事業を行い、その功績を讃えて「八百八橋」と呼ばれるようになりました。

詳細については、「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」の第4回「明治の醤油づくりと八百八橋」2009/11/29エントリ)をご参照くださいね。
「八百八橋」は、いくつかの神社のほか武蔵小杉駅北口、中原区役所など、現在も中原区に複数残されていますので、今後もご紹介する予定です。

神明神社をめぐる歴史については、以上です。

また次回は、「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」の本編に戻りたいと思います。

■中原区役所に移設・保存された八百八橋
中原区役所に保存された八百八橋

■神明神社のマップ
神明神社のマップ

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と
石橋ベンチ

2011/7/9エントリ (13):「二ヶ領用水と神地橋」
2011/9/4エントリ (14):「泉沢寺と門前市」
2012/12/1エントリ 「安藤家長屋門」が川崎市指定文化財に、本日12月1日(日)に一般開放
2013/2/9エントリ 「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物記念イベント」が2013年3月14日(木)、30日(土)開催
2013/2/12エントリ 川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート
2013/8/16エントリ (15):「旧中原村役場跡」
2014/2/10エントリ (16):「木月堀と『くらやみ』」
2015/12/20エントリ (番外編):旧原家母屋跡地「GATE SQUARE小杉御殿町」の歴史展示

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2015年
12月20日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(番外編):旧原家母屋跡地「GATE SQUARE小杉御殿町」の歴史展示

【Reporter:はつしも】

中原街道の小杉陣屋町に、旧原家母屋跡地の用地をマンションに転換した「GATE SQUARE小杉陣屋町」が完成しています。

同敷地内にはオープンスペースが整備され、旧原家の歴史を残す展示などが行われています。

■中原街道から見た「GATE SQUARE小杉陣屋町」
中原街道から見た「GATE SQUARE小杉陣屋町」

原家は、中原街道で名主をつとめていた旧家で、現在も街道沿いにお屋敷があります。
そのひとつが小杉陣屋町の「旧原家母屋跡地」で、2009/10/16エントリでは、「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」の第2回として開発が始まる前の同跡地をご紹介しました。

その後三井不動産・竹中工務店および原マネージメントによる「GATE SQUARE小杉陣屋町」の開発が着手され、先般完成に至っています。

■旧原家母屋跡地の「陣屋門」
旧原家母屋跡地の「陣屋門」 

原家九代目の文次郎氏は、1889年から24年の歳月をかけて、この地に母屋を1913年に完成させました。
総ケヤキ造りの母屋は、当時の高度な木造建築技術を駆使した建築物であり、2001年に川崎市の重要歴史記念物に指定されました。

現在では母屋は多摩区の川崎市立日本民家園に移築され、市民が郷土や先人の智恵について学ぶ学習室として利用されています。

■川崎市教育委員会 かわさきの文化財 旧原家住宅
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000311.html

今回のマンション開発にあたっても、中原街道沿いの「陣屋門」はそのまま保存されました。
マンション自体も高層ではありませんので、これにより中原街道の景観も一定割合維持されています。

■「GATE SQUARE小杉陣屋町」の銘板
「GATE SQUARE小杉陣屋町」の銘板 

「GATE SQUARE小杉陣屋町」のマンション銘板は、かつて原家の蔵の基礎に作られていたものです。
これは江戸城の石垣にも使われていた「小松石」と呼ばれる高級石です。

■原家御神木のケヤキ
原家御神木のケヤキ

陣屋門から建物までの間は、オープンスペースになっています。
門のそばには樹齢約350年のケヤキがありまして、かつて原家通用門にあったものです。

幹がかなり斜めになっていまして、これは幼木時に斜面で生育したためのものだそうです。

■お社
お社

また陣屋門のそばには、お社が保存されています。
こちらも古くから原家の敷地内にあったもので、「小杉例大祭」の際には陣屋門から神輿入り、設置された神酒所にたくさんの人が集まったそうです。

■原家旧資料の展示
原家旧資料の展示

そしてマンションのオープンスペースに面した部分には、原家の歴史を示す展示があり、どなたでも見られるようになっています。

■明治初期の「陣屋門」
かつての陣屋門

■「旧原家母屋」
旧母屋母屋

これらはかつての旧原家母屋の写真です。
陣屋門は現在も残り、母屋は前述の通り「日本民家園」に移築されています。

ご紹介したのは一部で、ほかにも数点の展示がありました。

■原家の家印「イ」
原家の家印「イ」

かつての原家は、この地域にたくさんの石橋を架けました。
屋号はそれを由来とした「石橋」であり、同家の家印として「イ」の字が用いられています。

■街路灯「面影雪洞」(丸子の渡し)
街路灯「面影雪洞」

■面影雪洞「多摩川花火大会」「鷹狩」「丸子橋」
街路灯「面影雪洞」

「GATE SQUARE小杉陣屋町」の街路灯は、「面影雪洞」(おもかげぼんぼり)と名付けられて周辺地域に関連する絵柄が描かれています。

1枚目は「丸子の渡し」、2枚目は「多摩川花火大会」「徳川家康の鷹狩」「丸子橋」を示したものです。

■ドッグパーク
ドッグパーク
 
リードフックかけ

「GATE SQUARE小杉陣屋町」には、新しい設備としてドッグパークがありました。
これは「GATE SQUARE」の系列マンションの住人専用の施設です。

■中原街道から見える武蔵小杉のタワーマンション
中原街道から見える武蔵小杉のタワーマンション 

■タワーマンションから見た「GATE SQUARE小杉陣屋町」周辺
タワーマンションから見た「GATE SQUARE小杉陣屋町」 

中原街道からは、武蔵小杉のタワーマンションが見えました。

一方、もちろんのことタワーマンション側からも「GATE SQUARE小杉陣屋町」周辺の姿を確認することができます。

武蔵小杉駅周辺が大きく変貌していく中で、古い歴史を持つ中原街道も、沿道の建物更新や拡幅など、少しずつ風景が変わってきています。

「GATE SQUARE小杉陣屋町」の展示はどなたでも見られるオープンスペースにありますので、「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」の探訪の際にでも見てみてください。

【関連リンク】
GATE SQUARE小杉陣屋町 ウェブサイト

(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と
石橋ベンチ

2011/7/9エントリ (13):「二ヶ領用水と神地橋」
2011/9/4エントリ (14):「泉沢寺と門前市」
2012/12/1エントリ 「安藤家長屋門」が川崎市指定文化財に、本日12月1日(日)に一般開放
2013/2/9エントリ 「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物記念イベント」が2013年3月14日(木)、30日(土)開催
2013/2/12エントリ 川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート
2013/8/16エントリ (15):「旧中原村役場跡」
2014/2/10エントリ (16):「木月堀と『くらやみ』」

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2014年
02月17日

小杉御殿町遺跡における埋蔵文化財発掘調査の現地説明会が2014年2月22日(土)開催



現在、中原街道の「カギ道」の直線化・拡幅事業が進められ、かなり用地取得が進んできています。
この道路予定地は徳川家康が造営した「小杉御殿」がかつて存在した地域にあたり、道路整備に先立って川崎市教育委員会が遺跡の発掘を行っておりました。
その結果、道路予定地の一部(小杉御殿町遺跡第2地点)から遺跡が発見されまして、発掘調査が進められているところです。

そしてこのたび、同地における埋蔵文化財発掘調査結果の現地説明会が2014年2月22日(土)に市民向けに行われることになりました。

■川崎市報道発表資料 小杉御殿町遺跡第2地点埋蔵文化財発掘調査現地説明会について
http://www.city.kawasaki.jp/templates/press/880/0000055242.html

■発掘調査現地説明会の概要
▼日時:2014年2月22日(土)
 ・第1回 10:00~10:40(集合時間10:00)
 ・第2回 11:00~11:40(集合時間11:00)
 ※雨天の場合は翌日23日(日)に順延、23日も雨天の場合は中止
▼場所:小杉御殿町遺跡第2地点(中原区小杉御殿町1-918-7他)
 ※集合場所は現地事務所(プレハブ2階建)前
▼調査対象:溝跡、廃棄土坑等(近世~近代初頭)
▼主催:川崎市教育委員会
▼その他:参加自由、参加無料、申込不要
 ※現地に駐車場はありません。
 ※当日は歩きやすい靴・服装でご来場ください。


■発掘調査現地のマップ


■小杉御殿町遺跡第2地点付近(発掘調査開始前) 小杉御殿町遺跡第2地点付近(発掘調査開始前)

遺跡の発掘が行われた「小杉御殿町遺跡第2地点」は、中原街道の「カギ道」の正面にあたります。従来は戸建て住宅等が並んでいましたが、道路整備事業による用地取得が進み、2012年末には暫定的な歩行者通行路が供用開始となっていました(2013/1/4エントリ参照)。

この「小杉御殿町遺跡第2地点」からは、2012年度に川崎市教育委員会が行った試掘調査により、ほぼ東西に伸びる溝(用水路の跡と推定)や、茶碗や灯明皿を含んだ土坑(ゴミ捨て場)が発見されていました。
同委員会では、3月まで発掘作業を続ける予定であり、これにより不明な点も多かった江戸時代初期の小杉周辺の状況を推測する手がかりとしたいとしています。

今回の発掘調査現地説明会は、これらの発掘調査の成果を市民の皆様と共有し、郷土への愛着を深めるきっかけとなることを目的として開催されるものです。
当日の詳細なプログラムは発表されていませんが、専門スタッフによる発掘現場の解説が行われることと思います。



なお、今回の川崎市の報道発表資料に提供されている小杉村周辺の古絵図(1762年・宝暦12年6月)は、中原街道の旧家・安藤家が所蔵しているものです。

安藤家はかつて後北条氏(小田原北条氏)に仕えたといわれ、北条氏が1590年に豊臣秀吉に敗れ没落するとともに土着・帰農し、江戸時代には近隣一体の割元名主(名主の取りまとめ役)をつとめていました。
安藤家が代官から賜ったとされる立派な長屋門が現存していまして、2012年11月27日にこの長屋門が川崎市の重要歴史記念物の指定を受けています。

■昨年一般公開された「安藤家長屋門」
昨年一般公開された「安藤家長屋門」

■安藤家長屋門 東室
安藤家長屋門 東室

その後「安藤家長屋門」は一般公開が行われまして、本サイトでも2013/2/12エントリでレポートさせていただきました。

本サイトの連載「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」でもご紹介している通り、中原街道にはさまざまな史跡が残されています。
今回の埋蔵文化財発掘調査結果の現地説明会や、長屋門の一般公開など、普段は触れることの少ない歴史の財産を広く共有していくことは意義のあることではないでしょうか。

【関連リンク】
2009/11/9エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(3):「旧名主家と長屋門」
2010/2/14エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2013/1/4エントリ 中原街道の「カギ道」の一部歩行者通路が開通
2013/2/12エントリ 川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート

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2014年
02月10日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(16):「木月堀と『くらやみ』」

 

「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」の第16回は、「木月堀と『くらやみ』」です。

財団法人川崎市文化財団の事業に、市内の歴史文化遺産の保存と紹介を目的とした「川崎歴史ガイド」があります。これは市内の歴史をたどる9つのルートを設定し、現地にガイドパネルを設置するほか、パンフレットを作成して当該地域の歴史を紹介するものです。
中原区においては、「中原街道」と「二ヶ領用水」がルートに設定されており、本連載では「中原街道ルート」の紹介を行っています。

■「木月堀と『くらやみ』」のガイドパネル
「木月掘と『くらやみ』のガイドパネル」

中原街道には、途中いくつもの交差点があります。かつて「ロンドン、パリ」とも称されたのが小杉十字路で、そのすぐそばでは二ヶ領用水とも交差しています。
中原街道は、これ以外にも二ヶ領用水の支流とも何か所かで交差しています。それらの支流はいまでは暗渠(蓋付きの水路)となり、細い路地として残されています。

このガイドパネルが立っているのが支流のひとつ、「木月掘」の路地です。

■「木月堀」の暗渠
「木月掘」の暗渠

木月堀は、他の支流同様に暗渠になっています。
ご覧の通り、コンクリートの蓋が続き、暗渠沿いが路地になっています。

「川崎歴ガイド」のパンフレット紹介によれば、木月堀は支流の中でも特に澄んでいて、かつてはこの水を使った醤油の醸造も行われていたそうです。
明治時代には朝山家が「朝陽(ちょうよう)」、大正・昭和に入ると小川家が「ふんどん東陽」という商標で販売していました。

■「くらやみ」
「くらやみ」

「くらやみ」

さて、中原街道から木月堀の暗渠に入っていくと、立派な木々の茂ったお屋敷があります。こちらは名主であった原家のお屋敷で、地元では昔から「くらやみ」と呼ばれているそうです。
なかなかインパクトの強い呼び名ですが、木々の下はいつも日陰になっているため、その名前がついたのでしょうか。

原家については、「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」(2):旧原家母屋跡地(2009/10/6エントリ)でもご紹介しました。
こちらのお屋敷も歴史を感じさせる、落ち着いた佇まいです。

木月掘の暗渠はお屋敷沿いに流れ、その先もずっと細い路地となって住宅街の中に続いています。どこまで続いているものか、歩いてみたくなりました。

■「木月堀と『くらやみ』のガイドパネル」
「木月堀と『くらやみ』のガイドパネル」

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と
石橋ベンチ

2011/7/9エントリ (13):「二ヶ領用水と神地橋」
2011/9/4エントリ (14):「泉沢寺と門前市」
2012/12/1エントリ 「安藤家長屋門」が川崎市指定文化財に、本日12月1日(日)に一般開放
2013/2/9エントリ 「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物記念イベント」が2013年3月14日(木)、30日(土)開催
2013/2/12エントリ 川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート
2013/8/16エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(15):「旧中原村役場跡」

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2013年
08月16日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(15):「旧中原村役場跡」

 

2011/9/4エントリ以来、1年11か月ぶりの「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」の連載シリーズです。

財団法人川崎市文化財団の事業に、市内の歴史文化遺産の保存と紹介を目的とした「川崎歴史ガイド」があります。これは市内の歴史をたどる9つのルートを設定し、現地にガイドパネルを設置するほか、パンフレットを作成して当該地域の歴史を紹介するものです。
中原区においては、「中原街道」と「二ヶ領用水」がルートに設定されており、本連載では「中原街道ルート」の紹介を行っています。

第15回目となる今回は、「旧中原村役場跡」をご紹介します。

■「旧中原村役場跡」のガイドパパネル
 「旧中原村役場跡」のガイドパネル

旧中原村役場があったのは、小杉十字路から泉沢寺を越えて、武蔵中原方面に200mほど進んだところでした。現在、中原街道の歩道にガイドパネルが立てられています。

中原村は、市制・町村制の施行により1889年(明治22年に)誕生しました。橘樹郡上丸子村・小杉村・宮内村・上小田中村・下小田中村・新城村が合併したものです。

新しい村名となった「中原村」は、ご存じの通り中原街道から取られたものです。

ただ考えてみれば中原街道とは平塚市の中原まで至る街道であるためその名前がついたもので、現在の中原区に由来があったわけではありません。綱島街道が通っているからと小杉が綱島を名乗るのと同じようなことで、やや不思議な感じもいたします。

そういえば、「川崎市」というのも東京から見た「川の先」がもとであるという説もあります。
となると「川崎市中原区」とは、
「東の京から見た川の先で、平塚の中原まで行く途中」
という、よくよく紐解いていくとアイデンティティがぼやけた地名にも思えます。

ただ現在では「中原区」もすっかり定着して、違和感を感じることは特にありませんね。

■ガイドパネルの周辺
 ガイドパネルの周辺

現在では中原街道の現地に役場の名残はありませんが、当初は木造平屋の村役場が建てられていました。

役場の場所は「村の中心」にすべし、ということで、「中原村」を通る中原街道の両端から実測を行い、ちょうど中間点が村役場として定められたそうです。
これはやはり「中原村」の誕生に当たり6つの村の合併を行ったためで、「おらが村」同士の綱の引き合いがあったことをうかがわせるエピソードです。

二ヶ領用水の農業用水も水の分配でたびたび争い事になったといい、そのために水を正確に分配する「円筒分水」がつくられました。まさに「我田引水」の争いですね。

こういった市町村同士の綱の引き合いは、「平成の大合併」でも各地でありましたので、きっと当時も同じようなことがあったものと思います。
そう考えてみると、「中原区」という名称も、従来の6つの村の名前とは全く別のもので異論が出にくく、まとまりやすかったのかもしれません。

また裏返せば、村役場の場所を決めるにも村の名前を決めるにも、「中原街道」の存在が非常に大きなものであったことがわかります。

■中原街道を見守るフクロウ
 中原街道を見守るフクロウの石造

 



最後に余談ですが、村役場の名残をさがしてガイドパネルの周辺を見渡すと、電柱とガードレールの間に挟まれて、中原街道を見守るフクロウの石造がありました。

それほど古いものではなく、眼にはガラス玉がはまっています。

傍で営業していた石材屋さんが設置したものかしら…と思いつつ、公共用地ですっかり一体化した石造をじっと眺めてしまいました。

「川崎歴史ガイド・中原街道ルート」は武蔵中原駅を終着として、番外編を除き本編は残すところあと3回ほどとなります。また不定期連載となりますが、今回ほどは間をあけずまたどこかでエントリしたいと思います。

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」
2010/8/19エントリ (9):「西明寺と小杉学舎」
2010/11/12エントリ (10):「小杉駅と供養塔」
2011/2/11エントリ (11):「庚申塔と大師道」
2011/3/27エントリ (12):「小杉十字路」
2011/4/7エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」リニューアル
2011/5/3エントリ (番外編):「中原区役所の八百八橋」看板設置と
石橋ベンチ

2011/7/9エントリ (13):「二ヶ領用水と神地橋」
2011/9/4エントリ (14):「泉沢寺と門前市」
2012/12/1エントリ 「安藤家長屋門」が川崎市指定文化財に、本日12月1日(日)に一般開放
2013/2/9エントリ 「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物記念イベント」が2013年3月14日(木)、30日(土)開催
2013/2/12エントリ 川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート

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2013年
02月12日

川崎市重要歴史記念物「安藤家長屋門」一般公開レポート

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2013/2/9エントリでお伝えした通り、2013年3月14日(木)、30日(土)の2回にわたって、「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物指定記念イベント」が開催されます。本イベントは、中原街道の「安藤家長屋門」が2012年11月27日に川崎市の重要歴史記念物の指定を受けたことを記念し、その歴史を広く市民の皆様にも知っていただくことを目的としたものです。

■中原区ウェブサイト 安藤家長屋門「川崎市重要歴史記念物指定記念イベント」参加者募集
http://www.city.kawasaki.jp/nakahara/page/0000044697.html
※事前申込が必要となります。

本イベントでは安藤家長屋門が一般公開されることになりますが、これに先立ち、2012年12月1日の記念イベントでも第1回の公開が行われていました。

今回のエントリでは、12月1日の一般公開の模様をレポートしたいと思います。

■安藤家長屋門 12月1日の一般公開


12月1日の一般公開では、川崎市教育委員会文化財課の方が長屋門の解説を担当してくださいました。長屋門の入口のところで受付をしていまして、それほど大々的な宣伝をしていたわけではなかったと思いますが、161名の来場者があったそうです。

■安藤家長屋門、正面から


こちらは過去のエントリでもご紹介したアングルで、安藤家長屋門を正面から撮影したものです。
長いアプローチの奥に、立派な長屋門が建っています。

■安藤家長屋門、内側から
安藤家長屋門、内側から

続いてこちらは、長屋門をくぐって、内側から見たところです。
長屋門は木造平屋で、門の両側に部屋が設けられているのに加えて、中央の屋根の部分が中2階になっています。「寄棟(よせむね)造」に「桟瓦葺(さんがわらぶき)」で建てられ、建築時期は幕末頃とされています。

■安藤家長屋門 東室
安藤家長屋門 東室

一般公開では、長屋門の両側の2室をそれぞれ内部まで見せていただきました。「東室」は土間で、納屋として使われていたようです。

■東室から中2階への入口
東室から中2階への入口

東室の天井には、中2階への入口があり、ハシゴが立てかけられていました。

■安藤家長屋門 西室
安藤家長屋門 西室

■西室から中2階への入口
西室から中2階への入口

反対側の西室は、現在は畳張りで、窓も2箇所設置されていました。ただ、建築当初はこちらも開口部のない土間だったものが、その後改築されたとされています。東室に比べて、西室はより上等な倉庫として使われていたそうです。
この西室にも、中2階への入口があり、長屋門の部屋はいずれもつながっていることがわかります。

こうしてみると、「門」といいながらも2部屋+屋根裏の中2階がありますので、ひとつの家といってもいいくらいの建築物ですね。

2009/11/9エントリでも取り上げましたが、安藤家はかつては後北条氏(小田原北条氏)に仕えたといわれる旧家でした。北条氏が1590年に豊臣秀吉に敗れ没落するとともに土着・帰農し、江戸時代には近隣一体の割元名主をつとめていました。
割元名主とは、近隣一体の名主たちと代官との間で法令の伝達や年貢の取りまとめにあたる役割を担っていた名主の代表格で、長屋門は、安藤家が代官から賜ったものとされています。

■太政官による高札
太政官による高札

太政官による高札

太政官による高札

また、長屋門の内側や安藤家の庭には、太政官による「高札」が保存されていました。

詳細は2009/11/9エントリをご参照いただきたいと思いますが、高札とは、古代から明治時代初期にかけて法令を民衆に周知するために、木製の札を人目につきやすい街中に立てたもので、この付近では西明寺の参道入口付近に設置されていました。
その高札が現在では、安藤家長屋門の内側に保存されています。

この長屋門に保存されているのは、慶応4年(明治元年・1868年)に発令された高札であり、明治維新後の新政府が発した「五榜の掲示」という5つの高札のうちのひとつです。

「五傍の掲示」のうち、この高札を含む3つは「定三札」といわれ、期限を定めず掲示し続けるものとされましたが、印刷物などの情報伝達手段の発達により、「五榜の掲示」を最後に、高札による法令の伝達は明治6年(1873年)2月24日をもって廃止されました。
高札の廃止後、周辺の取りまとめ役であった安藤家がこれを引き取り、現在に至るまで保存していたものと思います。

       ※       ※       ※

なお、当日は現在の安藤家当主の方も現地にいらっしゃいまして、来場していた方々にたいへん丁寧にごあいさつをされていたのが印象的でした。

今回のレポートでご紹介したのは、長屋門一般公開で解説されていたものの一部に、高札など以前のエントリでまとめた内容をプラスしたものです。実際には川崎市教育委員会文化財課の方が、まだまだ他にも長屋門の詳細について説明をしてくださっていました。

次回、3月14日(木)のイベントでは、長屋門の公開に加えて周辺の「まち歩き」などもありますので、より多くを知ることができるでしょう。
3月14日(木)のイベント申込は2月15日(金)必着、3月30日(土)の申込は2月25日(月)必着となっていますので、ご関心のある方はお早めにお申し込みくださいね。

【関連リンク】
2009/11/9エントリ 川崎歴史ガイド・中原街道ルート(3):「旧名主家と長屋門」
2012/12/1エントリ 「安藤家長屋門」が川崎市指定文化財に、本日12月1日(日)に一般開放
2013/2/9エントリ 「安藤家長屋門 川崎市重要歴史記念物記念イベント」が2013年3月14日(木)、30日(土)開催

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