【Reporter:あさお】
2018年に開業した
JR川崎駅の「北口通路」に、川崎フロンターレのPRパネルが掲示されています。
先日、このパネルが
2020シーズン仕様に更新されましたので、ご紹介します。
■JR川崎駅の北口通路
JR川崎駅では、駅の混雑緩和を目的として
「北改札」と「北口通路」が2018年2月17日に新設されました。
この北口通路には、供用開始以来壁面に川崎フロンターレ関連のパネルが展示され、本サイトではこれを便宜上
「フロンターレロード」と呼んでおります。
このパネルは各シーズンごとと、また適時タイミングに合わせて更新されています。
シーズンが変わると選手の入退団やユニフォームの変更等がありますので、
新シーズンが始まるタイミングでは、必ず更新されるようになっています。
■改札寄りの展示「GET NEXT」
川崎フロンターレでは、シーズンごとに
キャッチフレーズを決定しています。
近年を振り返ると2017が「Paint it blue」、2018が「GO Sensational !」、2019が「EVER BLUE どこまでも高めていく」でした。
そして
2020シーズンは「GET NEXT」です。
川崎フロンターレは2017・2018シーズンにJ1連覇を果たしましたが、他クラブが引いて守る「川崎対策」が進んだことなどもあり3連覇はなりませんでした。
タイトル奪還のためには現状を打破することが必要であり、2020シーズンはキャッチフレーズ「GET NEXT」のもと、
新システム「4-3-3」(※)を採用してより攻撃的なサッカーを志向しています。
このパネルで登場しているのは、
1枚目左から大島僚太選手、田中碧選手、谷口彰悟選手、2枚目左から小林悠選手、脇坂泰斗選手、三笘薫選手です。
小林悠選手は前キャプテン、谷口彰悟選手は現キャプテン、大島僚太選手は絶対的な「10番」ですから、クラブの顔として順当なところでしょう。
加えてベストヤングプレーヤーを受賞した旧成長株の
田中碧選手と、脇坂泰斗選手、三笘薫選手はいずれもユース出身の若手選手です。
三笘選手はルーキーですので、このパネルに入るのはクラブの期待値の高さを感じます。
※4-3-3:キーパーを除き守備4人・中盤3人・前線3人でよりゴール前に人数をかけるフォーメーション。リヴァプールなど欧州サッカーで採用が進む。
■「算数ドリル」の活動
「GET NEXT」に並ぶ改札寄りの展示には、
「川崎フロンターレは全力のプレーと地域活動を通じて、川崎を笑顔あふれる元気な街に創り上げます。」というメッセージとともに、さまざまな活動紹介が掲載されていました。
ここで紹介されているのは
「川崎フロンターレ算数ドリル」です。
ドリル内に選手らが登場して、サッカーなどをテーマに取り入れて親しみやすく算数を伝えるもので、川崎市内の小学校6年生向けに2007年から製作・配布しています。
■年間100回以上の地域イベントや社会貢献活動
そしてフロンターレといえば、
地域イベントや社会貢献活動への積極的な協力です。
本サイトでも、武蔵小杉周辺のイベントや多摩川清掃を行う「エコラシコ」など、さまざまな取り組みをご紹介してきました。
しかし年間100回以上というと、3日に1回近くやっているのですね。
■年間約200回のサッカー教室
そしてサッカーの分野においては、
年間約120の市内小学校・幼稚園・保育園、その他で約200回のサッカー教室を開催しています。
本サイトでも
等々力陸上競技場で開催される「親子サッカードリーム教室」や、「麻生グラウンド」でのサッカー教室などをご紹介しておりました。
■陸前高田市への東日本大震災復興支援と交流事業
またこちらは、
2011年から継続している、陸前高田市への東日本大震災復興支援事業と、交流事業の紹介です。
陸前高田市を訪問しての活動に加えて、同市の物産が集まるホームゲームイベント
「陸前高田ランド」も年に2回開催しています。
川崎フロンターレは、Jリーグクラブとして
地域貢献度において「10年連続1位」の評価を受けています。
一方で、「シルバーコレクター」と言われタイトルが取れない間、地域貢献活動で「選手に過大な負荷がかかっているのではないか」「そんなことをしているから勝てないのではないか」という声も一部にありました。
しかしながら、1997年のクラブ創設以来、地道な貢献活動を続けることで、
観客が全く入らなかった等々力陸上競技場が今では満員となり、多くのサポーターの後押しを受けてJ1連覇、2019年にはルヴァンカップ優勝を果たすこととなりました。
昨年放送された、
ラグビーを題材にしたドラマ「ノーサイド・ゲーム」も同様に、不人気クラブが地域貢献活動をしながら支持者を増やして勝利をつかむストーリーが描かれました。
実はこれは
ドラマ制作にあたって川崎フロンターレへの取材が行われて、実例として参考にされていたものです。
ドラマではストーリー進行上の尺が限られていますから、地域貢献活動を始めたシーズン内に効果が表れて観客が急増していましたが、実際にはそんなわけはありません。
川崎フロンターレのように
10年、20年の継続が必要なのだと思います。
■東口寄りの展示
続いて、
東口寄りのパネル展示も見ていきましょう。
こちらは通路の両側にパネルがあります。
■クラブのヒストリー展示
ここでは、川崎フロンターレの
1997年創立から、2019シーズンまでのヒストリーが年ごとに展示されていました。
1997から2016までの20年間はパネル1枚に2年分、タイトルを獲得した2017シーズン以降は単年ごとにパネル複数枚が使われています。
上記は一番最初の
1997・1998シーズンのパネルです。
ここからは左右に1年分ずつ分割してご紹介していきます。
■1997年「誕生」
1997年は、クラブ創設です。
Jリーグが発足した当初に加盟した10クラブは「オリジナル10」と呼ばれて現在も強豪とされるクラブが多いですが、川崎フロンターレは後発組としてスタートを切りました。
パネルに写っている
等々力陸上競技場のバックスタンドは、現在と基本的には同じです。
JFLからJリーグ昇格をめざしたシーズンは、勝ち点差1で3位に終わり、ぎりぎりのところで昇格を逃す結果となりました。
■1998年「涙」
この年は、現在監督をつとめる
鬼木達選手が鹿島アントラーズから加入しました。
JFLで準優勝を果たし、1999年からJリーグが「J1」「J2」の2部制に移行することが決定していたため、
J1参入決定戦に臨みました。
このJ1参入決定戦において、川崎フロンターレは1回戦でアビスパ福岡に敗れたため、J2に参入することが決定しました。
パネルにある
「博多の森の惨劇」とはこの参入決定戦のことで、延長Vゴール(※ゴールが決まった瞬間にゲーム終了となる当時のルール)で敗れるという壮絶なものでした。
■1999年「J1初昇格」
そして1999年、
川崎フロンターレはJ2優勝を果たし、初のJ1昇格を決めました。
1997年の創立から昇格争いに絡み続けてきたことも考えると、ここまで一般的に見ると順調といえる出だしだったかもしれません。
ただ、当然ながらその後順調なばかりではありませんでした。
そんな苦難の歴史も、このあとのパネルでは展示されています。
■2000年「無念」
初のJ1昇格は、残念ながら
1年で降格となってしまいました。
シーズン終了後には、現在クラブ特命大使としてPR活動に従事する中西哲生さんが退団したほか、監督なども一新されました。
なお、この年ははじめて
ヤマザキナビスコカップ(現在のルヴァンカップ)の決勝に進出し、0-2で鹿島アントラーズに敗れています。
こののち、2019年に初優勝するまで、
実に4回にわたって決勝で敗れるという呪縛を受けることになります。
■2001年「再出発」
続く2001年は、J2クラブとして新体制での再出発となりました。
また運営会社名からも富士通の名前が消えて現在の
「株式会社川崎フロンターレ」に変更され、地元企業などからの出資も受けて
地域との関係強化が図られました。
のちにキャプテンを務める
伊藤宏樹選手(現在はクラブスタッフ)が入団したのも、この年です。
J2で7位に終わり1年での再昇格はなりませんでしたが、天皇杯でベスト4まで勝ち進むなど、将来の可能性を感じさせました。
■2002年「成長」
そして
2002年は、J2リーグ4位・天皇杯ベスト8でした。
攻撃ではブラジル人フォワードのベンチーニョ選手が16得点を獲得する一方、守備では前年に入団した伊藤宏樹選手がフィールドプレイヤーでチーム1位の出場時間でフル稼働して中心選手に育ちました。
ムラはありながらも、「成長」の1年となりました。
パネル下部に写っている
背番号7は、現在の鬼木監督です。
■2003年「勝点1差」
パネルのタイトルの通り
「勝点1差」でJ1昇格を逃した年です。
パネル右上がこの年入団した
ブラジル人のジュニーニョ選手で、28得点を獲得。
その後圧倒的な得点力で君臨し、川崎フロンターレの成長期を支えました。
またこの年は
現在のクラブのシンボル的存在、中村憲剛選手が入団してリーグ34試合に出場しています。
■2004年「Mind-1」
J2降格以来3年が経過した2004年、ついに川崎フロンターレは
J1再昇格を果たします。
ジュニーニョ選手は37得点を獲得し、これはもちろん得点王です。
この年のキャッチフレーズが
「Mind-1」で、これは現在の東日本大震災復興支援活動にも引き継がれています。
写真右上で水をかけているのは、中村憲剛選手でしょうか。
■2005年「自信」
2005年はJ1リーグに昇格し、8位の成績を収めました。
昇格したクラブの多くは最低限の目標として
「J1残留」を掲げますが、まずはそれを果たしたわけです。
J2で無敵を誇ったジュニーニョ選手はJ1でも22得点を獲得し、その実力を証明しました。
■2006年「10周年」
1997年のクラブ創立から
10周年の年です。
中村憲剛選手は現在の「背番号14」を付けた、若々しい姿が写っています。
この年は日本代表に初招集されるなど、すでにJリーグを代表する選手の一人になっていました。
J1リーグでも浦和レッズに次ぐ2位に入り、AFCチャンピオンズリーグの出場権を獲得しました。
■2007年「準優勝」
2007年は、
ナビスコカップ(現在のルヴァンカップ)で2000年に続いて2度目の決勝進出を果たしました。
このときはガンバ大阪に0-1で敗れ、パネルにある通り
無念の準優勝でした。
また天皇杯もベスト4で鹿島アントラーズに敗れ、カップ戦では惜しいところで苦杯を舐めることとなりました。
■2008年「意地」
2008年は、
J1リーグで2006年に続く2位を獲得しました。
2006年は1位の浦和レッズと勝点差が離れていましたが、今回は1位鹿島アントラーズとの勝点差は3で、
最終節まで優勝の可能性を残していました。
それだけに、たいへん悔しい2位でした。
■2009年「悲願目前」
2009年もパネルのタイトル通り、
悲願のタイトル獲得まで目前まで行きました。
ナビスコ杯は決勝で敗れ、3度目の準優勝に終わりました。
リーグ戦はふたたび最終節にもつれ込みましたが、鹿島アントラーズに競り負ける形になりました。
科gい 2005年のJ1復帰以降、2006のJ1リーグ、2007のナビスコ杯、2008のJ1リーグ、2009のJ1リーグ&ナビスコ杯と、
4年連続で「2位」「準優勝」という結果を重ねたわけです。
栄冠に届きそうで届かない、そんな時期だったと思います。
■2010年「世界」
2010年は、
ワールドカップイヤーでした。
川崎フロンターレからは、パネルの写真にある
中村憲剛選手、稲本潤一選手、川島永嗣選手の3人が日本代表に、そして鄭大世選手が北朝鮮代表に選ばれました。
川島選手は正守護神としてフル出場し、日本代表はベスト16進出を果たしました。
ワールドカップは海外クラブが有望な選手を探すショウケースとしての側面があり、川島・鄭両選手はワールドカップ終了後にそれぞれ海外移籍を果たしました。
中村憲剛選手も欧州クラブからオファーがあったようですが、タイトルを獲得するために川崎フロンターレに残留しました。
その後、現在に至るまでクラブを代表する選手として活躍しています。
またこの年は、
のちにJ1連覇の原動力となった小林悠選手が入団しました。
■2011年「挑」
2011年は、
東日本大震災が発生し、たいへん深刻な被害をもたらしました。
ここから、
川崎フロンターレの被災地支援活動が始まり、「Mind-1」として現在も続いています。
一方この年、パネル左上の
大島僚太選手が静岡学園高校から入団しました。
当時から大きな期待を受けた選手で、ここから川崎フロンターレの中盤を支配する「10番」に育ちました。
■2012年「変化」
等々力陸上競技場は、かねてから老朽化やキャパシティの限界が指摘され、改築に向けて22万人以上の署名運動などが行われていました。
それが
2012年に大きく前進し、メインスタンドの改築が着手されることとなりました。
またエースストライカーとして得点を量産してきたジュニーニョ選手は鹿島アントラーズに移籍し、のちに
J1制覇の基礎を作った風間八宏監督が就任するなど、体制も大きく変わった年でした。
■2013年「礎」
2013年は、
大久保嘉人選手(パネル下)が加入しました。
同年から3年連続で得点王に選出され、風間監督が構築する川崎フロンターレの攻撃型サッカーを支えました。
パネルでは大久保嘉人の隣に、
小林悠選手の姿も見えます。
J1リーグは3位で、まだまだタイトル獲得への礎をつくっていく時期でした。
■2014年「加速」
2014年は、
2020シーズンのキャプテン谷口彰悟選手が入団しました。
同選手はこの年はリーグ戦30試合に出場するなど即戦力として活躍し、その後不動のセンターバックとしてディフェンスラインを統率しています。
またパネルの写真にある通り、
等々力陸上競技場メインスタンドの改修工事が徐々に進んできました。
■2015年「新時代」
そして2015年、
等々力陸上競技場メインスタンドが完成しました。
より傾斜のついた観戦しやすいスタンドに、ファミリーシートなど様々な席が用意されています。
この年は
エウシーニョ選手を補強で獲得するとともに、サイドバックの車屋紳太郎選手が入団、ユースからは板倉滉、三好康児両選手が昇格するなど、J1初制覇時の顔ぶれの多くが揃ってきました。
■2016年「20周年」
2016年は、
クラブ創立から20周年でした。
この記念すべき年にタイトル獲得を目指しましたが、
リーグ戦はチャンピオンシップで敗退、天皇杯は決勝まで進んだものの鹿島アントラーズに敗れ、次のシーズンに悲願を持ち越すこととなりました。
シーズン終了後に
風間監督が退任し、現在の鬼木監督が就任しました。
パネル左上は、
車屋紳太郎選手です。
■2017年「初優勝」
■2018年「連覇」
■2019年「制覇」
2017年以降のパネルは、それぞれタイトルを獲得した歓喜の瞬間を中心に、1年でパネル2枚ずつを使っています。
2017年はJ1初優勝、2018年はJ1連覇、2019年はルヴァンカップ初制覇です。
この3年間は本サイトでも重ねてご紹介してきましたし、ここで付け加えることはありません。
特に2017年のJ1初優勝のとき、悲願を達成した中村憲剛選手の涙はサポーターのみならず、多くの人の心を打ちました。
■2020年「GET NEXT」
最後のパネルは
2020シーズンのキャッチフレーズ「GET NEXT」です。
改札寄りでは3名+3名の2枚のパネルでしたが、ここでは同じ内容が1枚にまとまっています。
「フロンターレロード」のパネルのご紹介は、以上です。
パネルで展示されたヒストリーの背景を少しでも知っていると、また違う印象を受けるかもしれません。
現在、
新型コロナウイルスの影響により、Jリーグの試合は少なくとも3月いっぱいまで全面的に中止になっています。
J1のリーグ戦は第1節を消化したのみで、まだ「新シーズン開幕」の実感も薄いところではありますが、再開を待ちつつせめてもの展示を楽しまれる方もいらっしゃることでしょう。
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