武蔵小杉ブログ(武蔵小杉ライフ 公式ブログ)

川崎市中原区の再開発で変貌する街・武蔵小杉のタウン情報サイト『武蔵小杉ライフ』の公式ニュースブログ。街の最新情報やさまざまな話題をご紹介します。

2010年
08月19日

川崎歴史ガイド・中原街道ルート(9):「西明寺と小杉学舎」

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川崎歴史ガイド・中原街道ルートの連載第8回は、「西明寺と小杉
学舎」
です。西明寺については、2008/8/8エントリおよび、本連載の
2010/2/14エントリでも取り上げられていますが、今回は明治時代に
設置された「小杉学舎」に関する話です。

■西明寺参道のガイドパネル
西明寺参道のガイドパネル

小杉御殿が建設された西明寺の近辺は、当時の中原区の中心地
でした。現在では武蔵小杉駅の周辺が中心市街地となっています
が、それは鉄道が敷設されてからの話で、それ以前は街道筋が
栄えていました。
1873年(明治6年)、その西明寺の本堂を借りて設立されのが「小杉
学舎」
で、当時の小杉の子どもたちの学び舎となったものです。

■西明寺の本堂
西明寺の本堂

維新後の明治政府は、西洋列強と並び立つために人材育成に注力
することを考え、国民皆学を主旨とする「学制」を1872年(明治5年)に
発布
しています。これにより、6歳~13歳の児童に通学が義務付け
られ、全国に小学校が設置
されることになりました。

明治維新といってもいきなり日本全国津々浦々が近代化されたわけ
ではなく、国土の大半はインフラも整備されていない山林や農村でし
たので、これは当時としてはかなりドラスティックな政策だったものと
思われます。
この学制発布による小学校設置は、江戸幕府時代の寺子屋や私塾が
母体
となりましたが、設備・人材・教育水準・地理的条件などにおいて
未発達な面も多く、
全国各地での設置には大きな困難が伴いました。

小杉学舎ができた1873年(明治6年)頃には全国各地の村々で開校
が相次ぎましたが、当初から専用の学舎を持つところは少なく、民家
や寺社を借りていたケースが多かった
ようです。
小杉学舎もそういったケースのひとつで、独自の学舎ではなく西明寺
の本堂を借りて開校
されています。

また、当時の学校では人的資源(教師)の不足も著しく、実質的に
はお寺の住職が教師を兼任したり、複数の学校を1名の教師が見て
回るだけだったりと質的な課題
もあったようです。
ですが、とにもかくにもこれで近代的な教育が日本全国で始まり、
徐々に現在の学校制度の礎が築かれていったわけです。

■西明寺の参道
西明寺の参道

さて、西明寺の小杉学舎ですが、1901年(明治34年)には参道脇に
尋常中原小学校が創立
されました。現在では跡形もありませんが、
小学校の跡地が一時期青年団の集会所となっていたことがあり、
その青年団が建立した二宮金次郎像が、参道の一角に現在も残さ
れています。

■西明寺の二宮金次郎像
西明寺参道の二宮金次郎像

この参道付近は、2009/11/9エントリ「旧名主家と長屋門」で取り上
げた明治政府の高札の掲示場(高札場)があった場所でもあります。
当時の公共施設が集められた、街の中心地だったのでしょう。

前述の通り、現在では中原区の行政の中心は武蔵小杉駅周辺に
移っていますけれども、中原街道沿いの各所に残されたこれらの
史跡により、かつての賑わいを想像することができますね。

■「西明寺と小杉学舎」マップ
「西明寺と小杉学舎」マップ

【関連リンク】
(川崎歴史ガイド・中原街道ルート連載)
2009/9/23エントリ (1):「丸子の渡し」
2009/10/6エントリ (2):「旧原家母屋跡地」
2009/11/9エントリ (3):「旧名主家と長屋門」
2009/11/29エントリ (4):「明治の醤油作りと八百八橋」
2009/12/21エントリ (番外編):「武蔵小杉駅の八百八橋」
2010/2/9エントリ (番外編):「丸子の渡しガイドパネル入札不調」
2010/2/14エントリ (5):「小杉御殿と『カギ』の道」
2010/3/30エントリ (6):「小杉御殿の御主殿跡」
2010/5/23エントリ (番外編)「中原区役所の八百八橋」
2010/6/28エントリ (7):「小杉陣屋と次大夫」
2010/7/19エントリ (8):「御蔵稲荷と多摩川」

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